罪の支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主イエス・キリストにおける永遠の命なのです。
ローマの信徒への手紙6章23節(参照箇所同書6章15〜23節)
人にとって、死は自然ではないからです。人は死に逆らいます。終わりを持ちたくないからです。だったら神のようになればよいと、誘惑に駆られて神の定められた命令に背いたのが、罪の始まりであることは創世記は言います。
それこそが罪であって、死がやってきて、お前は神に造られた存在であるのに、造った神になろうとしていると断罪するのです。死は、その意味で神でない者は、神になることができない証拠を突きつけられているようなものです。
ルターはこれを逆手に取って、「死は罪を完成する」と言います。死によって、罪人であることに徹することができるからです。しかし彼は言うのです。「罪人であることに感謝しなさい。キリストは罪人のために死んでくださったからである」と。罪人にならなければ、キリストの死にあずかることができないのですから、その意味では罪人であることはキリストに救われることです。同時に罪人であることによって、キリストの死にあずかると共にキリストの命にあずかる者となります。
ですからルターは「信仰者は自然の死を待つのではなく、死を探してでも死と出会わなければならない」と言います。死こそが罪を完全に教えるからです。