軛を負わされたなら、黙して、独り座っているがよい。
哀歌3章28節(参考箇所同書3章1〜66節)
哀歌は、紀元前587年バビロン王ネブカドネツァルによって攻略を受けたエルサレムの住民の嘆きを歌った詩です。2章の表現によれば、この時、神はまるで敵のようであり、御自分の聖所を見捨てられたかのようであり、頼りとする王と諸侯は異国に捕らえられ、幼子は母親にパンはどこ、ぶどう酒はどこと飢えを訴えるばかりです。救いの欠片もなく、もはや絶望の極みに達したかのような時代の様相を見ます。
このような事態に身を置けば、声を上げて叫ぶことも、嘆きの祈りを献げることも無意味としか思えません。回復のための手立てはどこにもなく、沈黙する以外にこの事態を乗り切る手立てはないのです。
しかし哀歌の作者は沈黙して待つことに意味を見出しました。沈黙の中にいることは、ただ黙って時が過ぎるのを待っていることではありません。将来の回復の救いのために積極的に沈黙を選び取れと命じるのです。彼は「主の救いを黙して待てば、幸いを得る」(26節)と言います。これは沈黙の中に身を置かなければ、見えてこない神の救いがあることを知った者の言葉です。辛い時間を黙って耐える者のみが知り得る神の答えがそこにあります。