主を畏れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは分別の初め。
箴言9章10節(参考箇所同書9章1〜12節)
ここ18世紀から20世紀にかけて人類は科学の知を急速に発展させてきました。その根本にある思想は、人間は考えて分かること、目で見て実証できることを出発点として、事実のみが真実を表わし、事実として実証できないことはやがて知識が発展すれば、分かるようになると信じてきました。
しかし、どれほど知識が発展しても人間には分からないことがあるものです。たとえば、なぜ考えると分かるのかは、考えても分かりません。科学の知は、それはそうなっているからだとしか答えないでしょう。しかも知識は変化をし、限界もあります。この世界そのものが、やがては消滅することを考えれば考えて分かることがすべてであって、そこで実証できることが真実であるなどといってもこの世界が存続する限りであります。
しかし人間は考え続けます。なぜ、なんのために、この問いにはどれほど人間の知識が発達しても答えがないでしょう。わたしたちは、人間が考えることができるように造ってくださったお方がおいでになるという事実から知識を出発させねばなりません。人間はそれを知って、造ってくださったお方の意志に添って知識を謙遜に行使することができます。