主の御名をあがめます。
皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、 申命記の6章です。それではよろしくどうぞ。
◆申命記 6章16節
あなたがたの神である主を試みてはならない。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
祈る時に「神様、もしあなたがいるのなら・・・」と祈る人もいるかもしれません。ちょっと美しい感じもする祈りの言葉ですが、これは神様を試していることになります。だっってこの祈りは言い換えるなら「この願いが叶うか叶わないかで、神様あなたがいるのかいないのか判断します」と言っているようなものですから。
クリスチャンでもつい「神様がいるなら、この願いを聞いてくれるはずだ」なんて思いを抱いてしまうことがあります。しかし、本当に神様を信じているなら「神様がいるなら」なんて仮定を置くことが、そもそもありえないんです。
クリスチャンでない方には、「この前はあっちの神社でお願いしたけどダメだったから、今度はこっちの神社でお願いしてみよう」なんて、あちこちの神社やお寺を巡る方もいます。これも「神様を試す」行為だと言えます。クリスチャンでも「あっちの教会で恵まれなかったから、今度はこっちの教会に行ってみよう」なんて、あちこちの教会を転々と巡り歩く方もいます。これは「教会渡り鳥」なんて呼ばれ、あまり良いこととはされません。これも一種の「神様を試す」行為だと言えます。そういう人はもしかしたらやがて、「教会よりお寺の方が居心地が良いからこっちに改宗しよう」なんてことにもなりかねません。
人はこんな形で「神様を試し」ながら、「自分に都合の良い神様」を探し回ってしまうんです。「神様なら自分に都合の良いことをしてくれるはずだ」という思いから「自分に都合の良くない神様はいらない」という結論に至ってしまったりしまうんです。
神様に対して「こうしたらもっと恵まれるかも、ああしたらもっと恵まれるかも」「ここよりも、あそこの方が愛されるかも」なんて試行錯誤は必要ないことですし、避けるべきことなんです。なぜなら神様の愛は、人がどこにいようが何をしようが、同じように注がれているものだからです。太陽に対して「こうしたらもっと明るくなるかも」なんて試行錯誤するのがナンセンスなのと同じです。試行錯誤するのは多くの場合は悪いことではありませんが、神様に対しての試行錯誤はダメなんです。人に愛されるためには試行錯誤が必要なこともあるかもしれませんが、神様に愛されるために試行錯誤は必要ないんです。
それではまた明日。
主にありて。
MAROでした。
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