騒がしいところで電話をかけてはいけません。【聖書からよもやま話174】

主の御名をあがめます。

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、  イザヤ書の59章です。それではよろしくどうぞ。

◆イザヤ書 59章1〜2節

見よ。主の手が短くて救えないのではない。
その耳が遠くて聞こえないのではない。
むしろ、あなたがたの咎が、
あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、
あなたがたの罪が御顔を隠させ、
聞いてくださらないようにしたのだ。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

騒がしいところから電話がかかってきて、話がよく聞き取れずに「ちょっとよく聞こえません」って言ったら、相手が「なんだって!あんたは耳が遠いのか!もういい!!」なんて怒ったとしたら、すごく理不尽を感じますよね。だってもちろん、その話が聞こえない原因は「受け手の耳が遠い」ということではなく、「かけ手の周りが騒がしい」ということですから。騒がしいところから電話をかける方が悪いわけです。

しかし実は僕たちは神様に対して同じことをしてしまいがちです。神様が時に僕たちの祈りを聞いてくださらないように思える時、僕たちはつい「神様が聞いてくださらない」とか「神様なんていないんじゃないか!」なんて思ってしまったりしますけれど、祈りが聞かれないことの原因は神様の側ではなく、僕たちの側にあるのだと聖書は告げています。つまり僕たちの心にある罪が、神様の助けを妨げているのだということです。つまり、言うなれば僕たちは騒がしいところから神様に電話をかけて「神様は僕の話を聞き取ってくれない!」と怒っているようなものなんです。神様からすれば「そっちがうるさいから何言ってるかわからないんだよ!!」って気持ちかもしれません。

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Photo by Icons8 Team on Unsplash

別のたとえをするならば、ずっと地下室にこもっている人が「僕はずっと太陽を見ていない。だから太陽なんてないんだ」と言っているようなものです。誰に閉じ込められているわけでもなく、自分でドアを閉めてこもっているのに、「陽の光がここまで入ってこないのは太陽が悪い」と言っているようなものです。そのドアの外ではイエス様が「出ておいでー」とノックし続けてくださっているのに。

神様を遠く感じてしまう時。そんな時はどんなに熱心なクリスチャンにでもあります。でも神様は決して僕たちから遠ざかったりしません。僕たちの方が神様から遠ざかっているんです。神様の声がよく聞こえない時、それは神様の声が弱いのではなく、僕たちが騒音、すなわち罪に囲まれているからよく聞こえないってことなんです。

神様の声がよく聞こえないな、と思ったら自分が騒音に囲まれていないかをまずチェックする必要があるんです。

それではまた明日。

主にありて。
MAROでした。

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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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