今日7月22日はナッツの日。日本ナッツ協会が制定しました。「ナ(7)ッ(2)ツ(2)」の語呂にちなみます。
ナッツ(木の実)には、くるみやカシューナッツ、アーモンド、ヘーゼルナッツ、ピスタチオなどがあります。聖書に出てくるナッツといえば、くるみとピスタチオとアーモンド。前2者は1箇所ずつです。
くるみの園に私は下りて行きました(雅歌6:11)
カナンの地で飢饉がひどくなり、エジプトのヨセフのもとに食糧を求めて兄弟たちが行こうとするとき、ヤコブがアドバイスした言葉にも出てきます。
すると、父のイスラエルは息子たちに言った。「それではこうしなさい。この地の名産を入れ物に入れて、その方への贈り物として携え、下って行きなさい。少しばかりの香油と蜜、樹脂とシスタス香、ピスタチオとアーモンドなどだ」(創世記43:11)
ピスタチオもアーモンドも高級料理に使われました。
文語訳では「胡桃(くるみ)および巴旦杏(はたんきょう)」となっています。「巴旦杏」はアーモンドの漢名で、文語訳ではほぼこの言葉が使われています。口語訳ではすべて「あめんどう」となっています。江戸時代にポルトガルから渡来したとき、訛(なま)ってそう発音されました。
アーモンドは、バラ科サクラ属の落葉高木で、2月にサクラに似た花を咲かせます。そのことから、アーモンドはイスラエルに春を告げる花といわれます。
2カ月半ぐらいすると、実が熟しますが、果肉は薄くて食用にはなりません。果肉は乾燥すると割れ、種子が落ちます。その種子の殻を取り除くと、茶色い皮で覆われた生アーモンドが現れます。
ヤコブは、白ポプラの若枝、アーモンド、プラタナスを取って来て、それらの皮を剝いで白くむき出しにし、若枝を白くあらわにした。(創世記30:37)
文語訳では「楊柳(やなぎ)と楓(かえで)と桑の青枝」と、アーモンドがここだけ「楓」になっています。
また、神の幕屋で使われる金の燭台(メノーラ、左右対称に3本ずつの枝がある)の飾りは「アーモンドの花」にするように神様は命じられます。
「一本の枝には、アーモンドの花の形をした萼(がく)と花弁から成る三つの節があり、他の枝にもアーモンドの花の形をした萼と花弁から成る三つの節がある。燭台から出る六本の枝は、いずれも同じようにする。また、燭台の支柱には、アーモンドの花の形をした萼と花弁から成る四つの節を付ける」(出エジプト25:33~34。その命令に従って作られたものの説明が同37:19~20にある)
アロンの杖はアーモンドの木から作られていましたが、その意味は後述します。
翌日、モーセが証しの幕屋に入ると、レビの家のアロンの杖が芽を吹き、つぼみを付け、花を咲かせ、アーモンドの実を結んでいた。(民数記17:23)
コヘレトの言葉にあるたとえは分かりにくい。
アーモンドは花を咲かせ、ばったは足を引きずり、ケッパーの実はしぼむ。(コヘレト12:5)
これは「『私には喜びがない』と言うよわい」(1節)についての描写です。老人の白髪をアーモンドの白い花にたとえています。1年でいちばん良い時期の風物をあえて持ち出し、老人の衰弱を際立たせているのでしょう(ちなみに「ケッパーの実はしぼむ」を、口語訳では「その欲望は衰え」、リビングバイブルは「性欲もなく」と意訳しているのは、ケッパーの実が食欲増進や性欲亢進に効果があると言われることから)。
主の言葉が私に臨んだ。「エレミヤよ、何が見えるか」。私は答えた。「アーモンドの枝が見えます」。主は私に言われた。「あなたの見たとおりだ。私は、私の言葉を実現するために見張っている」(エレミヤ1:11~12)
預言者エレミヤはアーモンドの枝の幻を見せられます。そこで神がエレミヤに語ったのは語呂合わせです。ヘブル語でアーモンドは「シャーケード」といいますが、「見張る」(ショーケード)と発音が似ていることから、「ご自身の言葉が実現するのを神は見張っている」ことをアーモンドの映像によって鮮烈に印象づけているのです。
「見張る」(ショーケード)と訳されたのは「目覚める」の分詞。眠らないで目を覚ましていること、寝ずの番をすること、注意深く期待して待つことを意味します。
「アーモンド」はほかの木に先立って、一度は枯れたように見える枝から花を咲かせます。そのため「目覚めの木」とも呼ばれます。つまり、そもそも「見張る」という言葉からつけられたので、似ていて当然なのです。神様が人間のよみがえりのために目を覚まして見張っていることを、アーモンドの花を見るたびに想い起こさせられます。