今日7月6日は津田仙(つだ・せん)の誕生日です。津田塾大学創立者である津田梅子の父親で、1871年、岩倉使節団と共に渡米する最初の女子留学生に当時6歳だった梅子を応募しました。
この頃、脱国して米国にいた新島襄と少女だった梅子が会っていることを、襄は手紙に書いています。
私の下宿は、日本から来た(五人の)少女たち(留学生)が今滞在している宿舎に大変近い所にあります。昨日そのうちの二人に会いました。……一人(津田梅子)はわずか8歳(満7歳)です。後者は現在祖国で有能な役人になっている私の古い学友(津田仙)の次女です。
襄は14歳の頃(1857年)、6歳年上の仙とすでに江戸の蘭学所で共に学んでいました。その後、仙の長男(梅子の弟)の元親(もとちか)と次男の次郎は同志社に学んでいます。
73年、仙はウイーン万国博覧会に随行したとき、聖書協会が展示していた何カ国語にも訳された聖書に触れ、「このように世界中で読まれている聖書についてもっと知りたい」と思ったといいます。帰国後の75年、37歳で、米国メソジスト教会のジュリアス・ソーバー宣教師により洗礼を受けました。日本宣教を志していたソーパーは、米国で梅子に紹介状を書いてもらい、それを携えて仙のもとに訪ねてきたのです。
仙の自宅で伝道していたソーパーは、78年に築地で耕教学舎を始めると、その経営に仙も加わります。その耕教学舎と海岸女学校(女子小学校)、美會神学校というメソジストの宣教師が始めた3つの学校が合同して青山学院ができました。
クエーカー婦人伝道会が87年に創設した普連土(フレンド)女学校も、開校時の仮校舎は仙の自宅内に建てられました。校名の「普連土」という漢字は、「普(あまね)く世界の土地に連なるように」と仙が命名しました。