1月16日 人の子は安息日にも主なのである。 マタイ12章8節

人の子は安息日にも主なのである。
              マタイ12章8節(参考聖書箇所同書12章1〜8節)

弟子たちはよほど空腹に耐えかねていたのでしょう、麦畑に入って麦の穂を摘んで食べ始めたと聖書は記しています。それを見て、律法を厳守するファリサイ派の人々は、イエスに「あなたの弟子は安息日にしてはならないことをしている」(二節)と非難の言葉を投げ掛けます。彼らの非難に対して、イエスは「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」(マルコ二章二十七節)と言われるのです。
救い主にとって、弟子たちが安息日の規定を守るか、守らないかは、救いの本質と関係がないのです。ファリサイ派から見れば、安息日の規定が守られているかどうかが重大問題でした。
同じ事は現代のわたしたちにも起こります。「決まっていますから」、「規則ですから」、「前例では」などと、人間よりも規則の方が主人公であるような扱いを受けたことはないでしょうか。現代のファリサイ派は、深刻な事態が発生すると、そういう言葉を都合のよい言い訳のように持ち出します。
救い主は、安息日の日、空腹に耐えかね心ならずも麦の穂を摘まざるを得ない弟子に「規則によれば」とはおっしゃいません。この日もまたわたしはあなたの主であると言われるのです。

賀来 周一

賀来 周一

1931年、福岡県生まれ。鹿児島大学、立教大学大学院、日本ルーテル神学校、米国トリニティー・ルーテル神学校卒業。日本福音ルーテル教会牧師として、京都賀茂川、東京、札幌、武蔵野教会を牧会。その後、ルーテル学院大学教授を経て、現在、キリスト教カウンセリングセンター理事長。

この記事もおすすめ