1860年代以降、イギリス長老教会は当初、「ホーロー語」〔福建省一帯の方言〕を話す漢人を宣教対象としていたが、実際にキリスト教が広まったのは山沿い地域の「平埔(へいほ)族」」〔清朝以前からの台湾原住民〕の間であった。
19世紀に来華したイギリス長老教会は、最初に中心となる宣教拠点を設け、そこから徐々に宣教地域を拡大する方針をとっていた。同長老教会は、まず1842年に漳州と泉州という二つの重要都市に近い廈門(アモイ)を宣教拠点とすることを決定した。1858年には、汕頭を宣教拠点に選び、近隣に宣教地域を拡大していった。そして1865年に台湾府(現在の台南)を宣教拠点として選び、宣教地域を拡大していった。
ところが、拠点に近い中心地よりも周辺地域の方が宣教の成果が良かった。宣教事業の多くは平埔族の村落に集中し、台湾府の付近に建てられて教会のほとんどが山沿いに位置していた。イギリス長老教会の総会では、「なぜ台湾においては、辺鄙な原住民の小さな村落ばかりに教会を建て、人口が集中している漢人たちの都市部で伝道しないのか」という議論が起こったほどだ。実は、同時期に来台したスペインのドミニコ会も当初は漢人を伝道対象としたが、最終的には萬金(現在の屏東萬金)の平埔族の村落に浸透し、発展した。
宣教師は当初、漢人を伝道対象としたが、台湾の漢人が単にキリスト教を受け入れないだけでなく、強い反感を抱いていることに気づき、他の伝道対象を探し始めた。そして平埔族がキリスト教に対して好感を持っていることが分かると、彼らを主要な伝道対象としたのだった。
興味深いことに、19世紀の世界各地のキリスト教宣教を見渡すと、比較的発展している都市部よりも、原住民の地域の方が宣教が成功しているという現象がある。こうした現象は、19世紀のアフリカと1860年代以降の中国において特に顕著だ。
キリスト教が原住民など社会的周辺の人々の間で求心力があったのは、周辺社会においては西欧の力を代表しているキリスト教によって政治的保護や医療サービスを獲得し、キリスト教勢力を引き入れることで現地の主流社会の文化的覇権に対抗するためだった、と筆者は考える。著名な教会史家のケネス・ラトゥーレット(1884~1968年)も、「少数民族の集団改宗は、西欧の力を利用して漢人の文化的覇権主義に対抗するためだった」と指摘している。
一方、キリスト教が漢人社会に浸透しなかった主な要因は、決して西洋社会と漢人社会の文化的差異によるのではなく、漢人がキリスト教に改宗するには相当な社会的犠牲を払わねばならなかったからだ。清朝末期の台湾において、漢人がキリスト教に改宗するということは、主流社会において出世できなくなるだけでなく、社会から「漢奸(裏切り者・売国奴)」という汚名を着せられかねないことでもあった。
もう一つ興味深い現象がある。日本による植民地時代には山岳地帯の原住民に対するキリスト教伝道は禁止されていたが、戦後キリスト教がそれらの地域に入っていくと、数十年の内に瞬く間にほぼすべての村落に教会が建てられ、山岳地帯の原住民の8割から9割がキリスト教徒になった。(翻訳=松谷曄介)
王 政文
おう・せいぶん 国立台湾師範大学歴史学博士、東海大学歴史学部副教授・同学部主任。専門は台湾史、台湾キリスト教史。特にキリスト者の社会ネットワーク・改宗プロセス・アイデンティティーの相関関係を研究。著書に『天路歴程:清末台湾基督教徒的改宗与認同』(2019年)など。