【連載小説】月の都(18)下田ひとみ

 

癌(がん)と聞いて、クリスチャンとして生きることを放棄しようと紘子(ひろこ)は決心した。残された日々を夫とひとつ心で過ごすのだ。夫と出会ったあの頃のように──

口に出しては言わなかったが、数蒔(かずま)はそのことを感じ取っていたはずである。

彼は一度だけ尋ねた。

「教会は?」

紘子はさりげなく答えた。

「もう行かないの」

数蒔にはわかったはずである。ふたたび夫と同じ道を歩むことを選んだ妻の心を──

神はいない。

そう信じることができたら、どんなに楽になるだろう。少なくとも、夫はそう信じているのだ。だから私ももう一度、この道を歩いてみよう。

歩き続けていれば、いつかはこの道に慣れるかもしれない。ほかに道があったことを忘れられるかもしれない。もしかしたら、それこそが私にとっての救いとなるかもしれない。歩き続けていれば、私の知らないどこかへ辿(たど)り着けるかもしれない。

いいえ、そうではない。

私は楽になることを願ってはならないのだ。すべては「ふり」なのだから。

私は何も信じない。

神がいることも、神がいないことも、信じない。

一番大切なのは、夫と私の関係なのだ。

私たちは夫婦なのだから、だから同じ道を歩む。夫が信じている道を、妻である私も。今こそ、そうするべきなのだ。

考えて、考えて、悩み抜いての末の決断であった。

それなのに数蒔は洗礼を受けたのである。

それはまったく妙であった。

紘子にはどうしても合点がいかなかった。数蒔は妻を大切にする人間であった。妻の心根を知りながら裏切るのは、彼らしくない。それも、いまわのきわになって。これではもう永遠に取り返しがつかないではないか。

このようなことを思いあぐねて、悶々(もんもん)と日々を送っているうちに、いつしか紘子の頭に、ひとつの疑問が渦巻くようになったのである。あの人は、もしかしたら、知っていたのだろうか。

あの秘密を──

まさか……

でも……

恐ろしかった。

そう疑うこと自体が、あまりに紘子には恐ろしかった。

あの人は知っていたのだろうか。

だから、私を苦しめようとして……

もしかしたら最後の最後になって、積年の望みを果たしたのだろうか。

洗礼を受けたのは、私への復讐なのだろうか。(つづく)

月の都(19)

 

下田 ひとみ

下田 ひとみ

1955年、鳥取県生まれ。75年、京都池ノ坊短期大学国文科卒。単立・逗子キリスト教会会員。著書に『うりずんの風』(第4回小島信夫文学賞候補)『翼を持つ者』『トロアスの港』(作品社)、『落葉シティ』『キャロリングの夜のことなど』(由木菖名義、文芸社)など。

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