皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。今日も日刊キリスト新聞クリスチャンプレスをご覧いただきありがとうございます。
毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、民数記の1章です。それではよろしくどうぞ。
◆民数記 1章2節
イスラエルの全会衆を、氏族ごと、一族ごとに調べ、すべての男子を一人ひとり名を数えて、その頭数を調べよ。
一昨日、ダビデが人口調査をして怒られた、という話を書きましたが、今日の箇所では反対にモーセが神様から人口調査を命じられています。同じ人口調査なのにどうして片方は怒られ、片方は勧められるのか。それは簡単に言えばダビデは「自分の力を誇るため」に調査をし、モーセは「神様の栄光を称えるため」に調査をしたからだと言えます。表向き同じ行動をしても、その心によって神様の評価はまったく変わるんです。
今日の箇所の神様からモーセへの命令で、すごいなと思うのは、ただ単に「数を数えろ」というのではなく、「一人ひとり名を数えて」と命じているところです。人の数って、人口調査でも、野球やプロレスの観客動員数でも、デモの参加人数でも、とかく「数」だけで終わりがちです。しかし、人間というのは決して「数」ではありません。一人ひとりにそれぞれ「わたし」があり、それぞれに大切な「あなた」もいます。顔のない「わたしたち」という「数」ではなく、顔のある「あなた」であり「わたし」です。
神様は僕たち人間を決して「数」としてはみず、一人ひとりの「あなた」として見てくださっているのだということです。同じ人口調査でダビデ が怒られた理由には、もしかしたらこの点もあるのかもしれません。ダビデは単純に「数」や「戦力」として民を数えたから怒られたのかもしれません。
ちなみにこの書が「民数記」と呼ばれるのは、このように「民を数える」シーンがこの書に記されているからです。・・・なんかあまりにも単純すぎやしませんか、そのネーミング。もうちょっと何かなかったんですかね。この書には他にもたくさん劇的かつ興味深いエピソードがたくさん記されていますのに・・・ちなみに、英語では「Numbers」と呼ばれます。もはや「民を数える」でもなく、ただの「数」になった・・・。
まぁいいや。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。