WHO(世界保健機関)の統計によると、障がいのある人は世界中で10億人を超え、子ども・若者の10%にあたる約2億人に何らかの障がいがあり、そのうち80%近くはアフリカをはじめ、開発途上国に暮らす人々だと推定される。(*)
*『グッド・モーニング・トゥー・ユー!~ケニアで障がいのある子どもたちと生きる~』より
7月1日に発刊された『グッド・モーニング・トゥー・ユー!~ケニアで障がいのある子どもたちと生きる~』(いのちのことば社)には、ケニアで障がい児支援施設「シロアムの園」を運営する公文和子さんが施設を開くまでのエピソードや、同園で出会った子どもたちや家族の物語が描かれている。
クリスチャンの家庭に生まれた公文さんは子どものころ、みんなと同じ制服を着て、同じことをしなければならない幼稚園での生活にどうしてもなじめず、当時まだ非認可だった「柿ノ木坂幼児グループ」(現・ベテル幼稚園)に転園する。遊びを通して創造性や自主性を育むことを目的とする同園では、子どもたちの“好き”や“やりたい”を尊重している。公文さんは本書で、この場所で初めて自分を「肯定」されたと実感できたという。
今振り返って、この経験が「人間は一人ひとり違い、一人ひとりが大切である」「違う個が集まった社会で、お互いを尊重し合い、愛し合っていくことが真の平和である」という今の私の中にある理念の基盤を作ったのだと思います。(第一章 ケニアで障がいのある子どもたちと生きる理由より)
聖書には多くの障がい者が登場するが、イエス・キリストはある箇所で生まれつき目の見えない人についてこう語っている。
「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」(ヨハネの福音書9章2~3節)
この盲人の目が癒されたのが、「シロアムの園」の名前の由来にもなったシロアムの池だ。
途上国では多くの場合、障がいが正しく理解されていないため、障がいのある子どものいる家族は差別や偏見の対象になる。この聖句のように「親族の血のせいである」や「悪霊が取りついている」「親族全体に不幸をもたらす」などと後ろ指を指され、社会的に孤立してしまう。さらに、社会保障や福祉、医療システムに加え、インフラも整備されていないのが現状だ。こうした状況の中で暮らす多くの障がい児や家族は、孤独の中で生活しているという。
「シロアムの園」という名には、コミュニティの中で心も体も、霊的にも癒される場所であってほしい。また、コミュニティ全体がみんなと他者を大切にし、大切にされるような共同体になってほしいという思いが込められている。
「シロアムの園」では、たくさんの中の「一人」ではなく、一人ひとり違った存在であるとして、毎日の朝の会で子どもたち一人ひとりの名前を呼び、毎月誕生会を行う。
些細なことと思うかもしれないが、「シロアムの園」に通う子どもたちの中には、存在そのものを否定され、誕生日を一度も祝ってもらったことがない子も少なくない。子どもたちにとって名前で呼ばれ、誕生を祝ってもらうという体験は、「あなたは大切な人なんだよ。生まれてきてくれてありがとう」と肯定され、受け入れられたと感じられる瞬間ではないだろうか。
また、ひと言で「障がい」といっても、脳性麻痺、発達障がい、ダウン症、先天性奇形などさまざまなため、理学・作業療法士、特別支援教育の専門家などと一緒にそれぞれに必要な「個別療育計画」を立て、一人ひとりの成長をサポートしている。ときに子どもたちは、大人が思ってもみなかったような成長を遂げて、公文さんや家族を驚かせる。
重い知的障がいがある6歳のミリアム(仮名)は、母親とすら目を合わせず、石を拾っては自分の頭や他人、壁、車などを叩いていたという。公文さんは、そんなミリアムに少しでも人やものに関心を持ってほしいとの思いから、毎朝「ミリアム!」と呼んでつかまえ、抱きかかえながら大きく揺らす遊びを続ける。すると数か月たったある日、名前を呼んだ瞬間にミリアムが振り返って公文さんの目を見て、自分から腕の中に飛び込んできた。
てんかんの持病がある7歳のテモテ(仮名)は、正しく服薬するようになったことで発作がほとんど出なくなっただけでなく、施設に通ううちに愛されていると実感でき、自分に自信を持てるようになっていったという。初めの頃は攻撃的な言葉ばかりぶつけていたが、少しずつ他人とコミュニケーションを取り始め、やがて自分より小さな子どもたちの面倒を見る姿も見られるようになった。
テモテの賜物は、シロアムの園に来たから生まれたものではありません。テモテはすでに神様から与えられているすばらしい宝物をたくさん持っていたのに、それを輝かすことができなかっただけだったのです。私たちの仕事は、一人ひとりの子どもたちが神様からすでにいただいているすばらしい賜物、うずもれた宝を輝かせて、世の光にしていくことなのだ、そんなことを学びました。(第六章 私の愛する子どもたちより)
公文さんは障がいのある子どもたちに対して「支援する」ではなく「共に生きる」と表現する。障がいの有無にかかわらず、この地球上に生きる一人ひとりは、神様が特別に愛して、それぞれ違った賜物が与えられた特別な存在であり、対等な存在である。また、すべての人には、これから「障がい者」になる可能性があるのだ。
先述のシロアムの池のエピソードには続きがある。イエス・キリストによって目を癒された男性は、当時、勢力を握っていたパリサイ派の取り調べを受ける。「生まれつき目が見えなかったのに、見えるようになった」と繰り返し訴える男性に対して、パリサイ派の人々は律法に背いているなど理由をつけて糾弾し、会堂から追い出してしまうのだ。公文さんはこのパリサイ派の人々こそ、大切なものを見るための目が見えない人だと語る。
私たちの社会の中で、本当に目が見えない人、すなわち心を失っている人は一体誰なのでしょうか? 言語で挨拶をすることができない障がいのある人たちなのか、それとも、その人たちが発信している心のメッセージを受け取ることができない私たちなのか。これは、社会全体への問いなのではないでしょうか。(第八章 相模原障がい者施設殺傷事件から思うことより)
『グッド・モーニング・トゥー・ユー!~ケニアで障がいのある子どもたちと生きる~』
公文和子
いのちのことば社フォレストブックス
1,560円