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◆1587年6月23日(天正15年5月18日) 大村純忠の没日
大村純忠は肥前の国を治めた戦国大名で、長崎港を開港した人物として知られます。また、1563年に洗礼を受け、日本初のキリシタン大名となった人物としても知られています。
1561年に隣の松浦氏の領土でポルトガル商人と日本人商人の争いが起こると、純忠は「それならうちの領土の港を使えばいいよ」と横瀬港をポルトガル商人に提供し、またイエズス会の宣教師に住居を提供するなどして便宜を図りました。これによって肥前の国の財政は大きく改善しました。そして1563年には自らキリシタンとなり、領民にもキリシタンとなることを奨励しました。
純忠がキリシタンになった経緯はこのように、南蛮貿易による利益が大きく絡んでいるのですが、キリシタンとなってからは側室を廃し、正室以外の女性とは関係を絶つなど、実際にキリシタンとして身を律してもいましたし、有名な天正遣欧少年使節の派遣を決めたのも純忠でした。一方で領内の寺社を破壊するなどの過激な政策もとったので、家臣や領民の反発を買いもしました。これが原因で家臣に謀反を起こされたこともありました。
晩年に自らの死を悟ると、領内の200人の捕虜を解放しました。さらに自らが飼っていた小鳥も侍女に命じて解放しました。この時、侍女が小鳥を雑に扱ったのを見た純忠は「小鳥はデウス様がつくられたものであるから、私はそれを可愛がっている。だから今後も愛情を持って小鳥に接して欲しい」と述べたと、『フロイス日本史』に記録されています。
1587年6月23日に当時としては天寿をまっとうして亡くなりましたが、これは秀吉によるバテレン追放令が発せられるわずか1ヶ月前のことでした。もし先にバテレン追放令が発せられていたら、彼の死はまた違う形となっていたかもしれません。
それではまた明日。