「販売は手売りのみ」という驚くべき方法ながら、多士済々な執筆陣によって話題を集めた批評誌『アーギュメンツ』完結から3年。日本語キリスト教の可能性を論じた同誌掲載「トナリビトの怪」を本紙にて全文公開する。(7/8回)
太平洋弧に立つイエス
ぼくには、イザヤ書やダニエル書が示す解釈の難しさが、むしろ、聖書自身が多声性を保存しようとした痕跡にも見える。果たして「主体」と「弱い主体」を再生産し、「弱い主体」を圧殺し続けることが、神の御心にかなうことだろうか。
怪談の想像力においては、西洋近代的自我による主体的区分による解釈は、恣意的でグロテスクな切断となるのではないか。加えていえば、近代文献学――その始まりは聖書だった――が提示した「聖書」の姿は、まさしく多声的で多層なものではなかったか。唯一にして至高の神の言葉は、有名無名の多くの人々の様々な場所で聞かれた「神の声」の聞き書きではなかったのか。
そもそも日本においては、元来、キリスト教は「怪談」として理解されてきた。切支丹は妖術使いとして何度も描かれている 。たとえば『切支丹宗門来朝実記』がある 。少なくとも1783年、天明の大飢饉の頃には書かれていた同書の写本には、豊臣秀吉が切支丹術者を招いて余興を行わせ、最後には幽霊を見せろと懇願したという創作が残っている。近代日本もキリスト教も、この江戸時代以来の怪談の想像力を拒否して棄却してきた。
しかし、怪談としてキリスト教を聞くという地点に戻ってこそ、明治維新以来の日本語キリスト教のかたち、「日本人か、またはキリスト教ベースの西洋近代的自我か」という二者択一の相克を越えていく地平が立ち上がる。
怪談という「死者と生者の交換可能性を担保とする場所の記憶、声」としてキリスト教をみなすとき、遅れた近代化とキリスト教の受容という課題を強いられたすべての国々と島々で「主体」と「弱い主体」は切断されることなく、その名で生きるだろう。それは日本語で問われている。
夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。
けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。
なぜなら、それは奇々怪々なもの、たとえば秀吉が見たのは、自らが手打ちにした女の怨霊だったからである。それは、弟子たちには、ありうべからざる禍々しきものとして見えたのだ。
神の五指とその隙間を包摂するために、「弱い主体」を救い出すために、ぼくはハワイ、日本、沖縄を辿り、怪談の形式を提示して、太平洋弧から伸びあがる可能性のラフスケッチを描いた。ぼくらには、少なくとも、ぼくには主体性や西洋近代的自我が重過ぎるからだ。
「バベルの塔」は、創世記10~11章にかけて記されている。10章では、各部族が各地方で各言語を話していたとあるのに、11章では全地が一つの言語を使用していたとある。キリスト教学者・芦名定道によれば、この二つの章の齟齬を解決するのは「帝国」である。
帝国とは、一元化の論理だ。多様な言語と文化を画一化して「主体」という名で奴隷化する力である。バベルの塔建設は、その象徴であった。しかし、神は、常に言語と文化を奪われた者の側に立ち上がる。ゆえにバベルの塔は阻まれた。
本稿を振り返るならば、神は奪われ排除されたものの側に立ち上がる。歴史と非歴史の境界で「主体」と「弱い主体」を隔てる壁は消失し、ありうべからざるものが現れた。この地平において、ぼくらはもはや、これらを「弱い主体」と呼ぶべきではないだろう。では、何と名指されるべきか。
ぼくはそれを「隣人」という言葉に求めたい。なぜなら聖書において隣人とは、まさしく自他の交換可能性を示す言葉だからだ。隣人が現れるとき、「神を愛せ、己を愛するように隣人を愛せ」というイエスの声が、聞こえ始める。隣人は、神の赦しを伝達するぼくらの似姿であり、またぼくらの赦しを待つ異形のものでもあったのだ。
すべての罪は十字架にかけられ、隣人が復活する。ありうべからざるものとして、自己と他者がよみがえり、神のヘセドが揺らめきあがる。自他の弱さを前提にした自己否定、他者と世界肯定の倫理が立ち上がる。誰もが隣人となる。
太平洋弧に朝が訪れる。光に照らされているのは、地球を掴む巨大な手が、隣人を握り潰す様子だろうか。神の五指の隙間に隣人がいるという滑稽な絵だろうか。夜が明けそめる頃、イエスは岸辺に立たれた。しかし、弟子たちにはそれがイエスだとは分からなかった。
波上宮の砂浜を見よ。ジーマーの奏でる三線の調べに寄せられた足跡が増えていく。太平洋沿岸弧に、いまイエスが立ちあがる。彼のうしろには、死者の声が反響し、近代から排除され蓋をされた全ての生者たちが蠢いている。抑圧され社会底辺へと追いやられた者たち、消えたハワイのカフナたちや柳田が親しんだ魑魅魍魎が、全ての死者、祖父が、そして、現代社会において交換可能で使い捨てのぼくらが起動し、互いに隣人となる。
なぜなら、そもそも福音は、エルサレムの髑髏山で十字架にかけられた政治犯が死者の中から蘇ったという声、怪談だからだ。イエスの声は、死刑囚の丘から、近代が本質的に包摂できない、ありうべからざるものたちの公共圏を宣言し呼びかける。そのとき神の五指は蒸発し、ローマで、イスタンブールで、アンタキヤ、エルサレム、アレクサンドリアで、否、世界各地で、隣人から囁きうめくような「神の声」が聞こえはじめる。
その声こそが、愛しくも恐ろしいトナリビトの怪なのだ 。
※次回更新は6月16日(水)朝6時
24) 田中貢太郎(1880-1941)『切支丹転び』が青空文庫で公開中。井上章一『日本人とキリスト教』(角川ソフィア文庫、2013)を参照。
25) 海老沢有道「切支丹宗門来朝実記」考『宗教研究』(日本宗教学会、1954年)36-62頁。
26) 本稿をアーギュメンツ#3刊行記念の場となった「天使の別荘カフェヴィランジュ(2018年5月20日閉館)」に捧げる。同館オーナー萬代健太郎、メイドたち、そこで出会った作家・蝉川夏哉、教会と家族を含む有名無名の多くの隣人らとの出会いなくして、これを書くことは出来なかった。神に栄光、地に平和、隣人に愛と怪。感謝して記す。
波勢邦生
はせ・くにお 1979年岡山生・キリスト新聞関西分室研究員/シナリオライター
http://www.kirishin.com/?p=48992
編集
※初出:「トナリビトの怪」黒嵜想・仲山ひふみ共同編集『アーギュメンツ#3』、渋家、2018、pp.24~37