5月3日「わたしが来たのは、罪人を招くため」

わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。(マルコによる福音書2章17節)

中風で寝ている病人の苦しみを共有していた四人の人が、主イエスのことを聞いて、主がおられる家に病人を運んで来た。ところが、家の戸口には大勢の人々がいて、主に近づくことができない。しかし、彼らは諦めなかった。彼らは家の屋根にあがり、穴をあけ、病人を床板に寝かせたままつり降ろした。主イエスは四人の大胆な行為に、ご自分への信仰を見て、病人に向かって「子よ、あなたの罪は赦(ゆる)される」(5節)と言った。そこに居合わせた律法学者はこの言葉を聞いて、「神おひとりのほかに、罪を赦すことはできない」と抗議した。主イエスは中風の人に「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言って、彼を立たせ、罪を赦す権威を持つことを示した。

それにしても、病人も彼を連れてきた人も、最初、罪の赦しの言葉を聞いた時、意外に思わなかっただろうか。私たちも教会に行き始めて、聞くのは「罪の赦し」である。最初、それが自分の悩みや生活に何の関係があるのだろうかと思う。しかし、やがて罪の赦しこそ神が与えてくださる真の救いであると知るようになるのである。私たちにとって、病気よりも、神との関係が切れている状態(罪)が惨めなのである。今日の聖句のように、主イエスはこのような罪人を神の国に招くために来られたのである。

病人を抱えていた四人のように、私たちが抱えている重荷を主イエスの前に持ち出して助けを求めるなら、主イエスこそ私たちの重荷を共に担い、悩みに満ちた私たちの人生に同伴してくださる神であると知るようになる。重荷を主の前に持ち出さないなら、私たちは自分の罪にも気づかず、主による罪の赦しの言葉は、律法学者のように私たちには関係のない言葉でしかないであろう。

内藤淳一郎

内藤淳一郎

西南学院大学神学部卒業後、日本バプテスト連盟の教会で牧会、鹿児島大学哲学科のカトリックの神学の学びから、鹿児島ラ・サール高校でも教える。日本バプテスト連盟宣教室主事、日本バプテスト連盟常務理事を8年間務める。

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