二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。(マタイによる福音書18章20節)
冒頭の「わたしの名」とは、その人格、その言葉と行動の総体である主イエスその人である。教会は、大きい小さいに関係なく、主の名によって集められた者たちの共同体である。
主イエスが私たちを呼び集めるのは、第一に、神と和解させ、神の家の子として迎えるためである。主イエスは、神に背を向けて罪を犯している私たちの一切の罪を引き受けて死んでくださった。御子によるこの贖(あがな)いの死によって、神は私たちの一切の罪を赦(ゆる)し、和解の手を差し伸べてくださった。私たちはこの福音を信じて、神の家に迎えられた。神の家に迎えられた私たちは、「神が御子の血によってご自分のものとなさった神の教会」(使徒言行録20・8)である。神の贖いの恵みと愛に生かされて、いつも神に感謝の礼拝を捧げ、神の赦しの恵みと愛を分かち合う神の家族である。
主イエスが私たちを呼び集めるのは、第二に、この地上に教会を建て、教会を通して神の業を行うためである。主は「さあ、わたしのもとに来なさい。わたしの働きのためにあなたが必要なのだ」と言って、私たちを召したのである。そして、主は私たちに和解の福音を宣べ伝えさせ、また、神の赦しの恵みと愛を証しさせて、人々を神との和解に招き、世界を新しく創造する救いの業を続けられる。教会は主の血によって贖い取られた群れ、主によって神の尊い働きのために召された共同体である。私たちは共に集まる時も、世に遣わされている時も、主イエスの「わたしもその中にいる」というみ言葉を聞きながら歩む。