8月18日「来年は実がなるかもしれません」

御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。(ルカによる福音書13章8〜9節)

主イエスはいちじくの木を植えた主人といちじくの木を世話する園丁の譬(たと)えを語った。私たちは事柄を分かりやすく説明するために譬えを用いるが、主イエスの譬えはそうではない。霊の世界である「神の国」は譬えでしか話すことができない

園丁が語った今日の聖句のように、主イエスの生涯は人々が悔い改めの実を結ぶことを願って働き、神に執り成す生涯であった。その頂点が十字架の死である。罪のために神の裁きを免れない人々のために、主は十字架にかかり、「父よ、彼らをお赦(ゆる)しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23・34)と執り成して、死んだ。わたしたちがまだ罪人(つみびと)であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ローマ58。今は、神の愛を知って、神に立ち帰る時である。

しかし、終わりの日が来る。終わりの日が裁きとなるのは、神が私たちを締め出すからではなく、子(みこ)によって罪の赦(ゆる)しの道を備えてくださった神を私たちが最後まで締め出したからである。復活し、昇天された主イエスは、今も主なる神に「今年もこのままにしておいてください」と執り成しておられる。聖霊の主は、終わりの日が来るまで、私たちが悔い改めの実を結ぶように働いておられる。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、……わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう」(ガラテヤ5・22〜25)

内藤淳一郎

内藤淳一郎

西南学院大学神学部卒業後、日本バプテスト連盟の教会で牧会、鹿児島大学哲学科のカトリックの神学の学びから、鹿児島ラ・サール高校でも教える。日本バプテスト連盟宣教室主事、日本バプテスト連盟常務理事を8年間務める。

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