愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか。(ルカによる福音書12章20節)
主イエスは「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」(15節)と言って、次の話をした。ある金持ちの畑が豊作であった。彼は思いめぐらして、大きな倉を建て、穀物をしまい込んだ。そして、「たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ」(19節、口語訳)と自分に言った。原文では、彼は「私の作物」「私の倉」「私の魂」と言っている。彼はすべて自分の力で得たものと思い上がっていた。神はこの金持ちに、今日の聖句を語って、彼の死を予告する。
彼が自分の死に気づくならば、自分は生かされている被造物であることに気づくはずであった。神は彼を「愚かな者よ」と言う。彼は地上の生活には抜け目なかったが、自分の死の備えを怠ったからである。彼は神に造られ生かされている者であることに気づかず、自分の力で生きようとして貪欲になり、神の意志を行わず、神を崇(あが)めなかった。このゆえに、終わりの日、神の前で裁かれる時、彼の死は永遠の滅びとなる。主イエスは、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」(21節)と言った。主が貪欲を戒めたのは、貪欲は命を滅ぼすからである。「人の命は財産によってどうすることもできない」(15節)。私たちもこの金持ちと同じように、富を得ようとして貪欲になり、自分の命を損なってしまう愚かな者である。しかし、主イエスは来られて、私たちのために「神の前に豊かになる」命の道を開いてくださった。主イエスに罪を赦(ゆる)され、主を信じ、み言葉に聴き従う生活をするならば、私たちは命を得る。