結婚10周年を迎えて間もないある夜、子どもたちを寝かせつけた後で夫とおしゃべりをしていた。詳細は覚えていないが、その会話の中で明らかになったことがある。信仰を持って30年が経ち、その半分近くを教会の牧会に献身してきた夫が信仰を捨てようとしていたのだ。
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私たちが結婚の誓いを立てた時も、子どもたちがバプテスマ(洗礼)を受けた時も、息子を死産で亡くした時も、信仰共同体を形作った時も、彼の信仰はいつもそこにあったし、私の働き(信仰アドバイザー、文筆家、講演者)を支えてきてくれた。そして彼はいま、その信仰から離れようとしている。
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私は当初、彼の信仰の旅路の一部として(たとえそれが私のものでもあるとしても)その知らせを尊重したいと思い、誰にもそのことを話すことはしなかった。発狂しそうなほどの事態を整理するためにも、私にはこのことを自分の中に留めておくことが必要だった。しかし私の体は、そうした理性を持たなかった。ある忙しい1日を終えて帰宅したとき、それはフルスイングで私を打ちのめした。目に涙があふれ、息が詰まって苦しくなってしまったのだ。
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「もう神がいるとは信じていない」という爆弾発言を夫がしてから2週間。私はようやく、その言葉の重みと、「裏切られた」という気持ち、喪失感、悲しみを感じることができるようになった。そしてそれは、私が一人で抱えられるようなものではなかった。
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そのことを親しい友人や牧師に話したとき、頭の中はさまざまな質問に呑(の)み込まれそうになっていた。子どもたちにはどう話せばいいのか。このことは彼らの信仰にどんな影響をもたらすだろう。彼とこれからどう接すればいいのか。彼のことをまた好きになることはできるのだろうか。彼の身に何が起こって、こんなことになったのだろう。なぜもっと早く教えてくれなかったのだろう。まだ一緒に教会に行くことはできるのだろうか。この気持ちが収まることなどあるだろうか。
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19世紀のドイツの詩人ライナー・マリア・リルケは『若き詩人への手紙』でこのように記している。「今はその疑問と共に生きなさい。いつの日か自分でも気づかないままに答えにたどり着くかもしれないのだから」
神への信仰を失った者のパートナーとして私は、いつか答えが見つかることを期待し、今この疑問と共に生きている。しかし、すべてが謎(なぞ)なわけではない。日々の変化を経験する中で、私は夫を愛する方法を学んでいる。この2年間で特に学んだのは、これから挙げる10のことだ。
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1 聖霊の働きに信頼を寄せる
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早い段階で夫は私に、「信じることができない理由」を分かち合いたいと言った。言葉にはしなかったが、私は内心、憤然とし、うんざりするような気持ちになった。私はその気持ちを、自分が頼りにしている信仰アドバイザーに伝えたところ、彼女はこう言ったのだ。
「心を開いて人に何かを伝えたいと思わせられるのは、聖霊の働きだけです。『自分の気持ちを伝えたい』という彼の欲求は(神からの)贈り物ですよ」
そのアドバイスは私の中に留まり、それ以来、数えきれないほどの良い実を結んでくれた。
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アダム・ニーダーはこのように書いている。
「『神はご自身を現す』と私たちが信じるのは……私たち自身の能力や特性、説得力によるのではない。それは、神が持つ『知られたい』という望みと、復活したキリストの圧倒的な存在感に基づいている。イエスは聖霊を通して自らの存在を私たちに示してくださる」
ニーダーがそう書いたのは、教師と生徒の関係性を想定してのことだったが、それはパートナーとしての関係にも当てはまる。
「聖霊は夫の人生に常に働きかけている」。私はそれを現実として信じることができる。
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2 何が霊的に成長させ続けるのかを明確にし、成長を続ける
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夫がキリスト教から離れたとき、私は自宅にいるにもかかわらず、霊的な孤独を感じるようになった。そうした状況の中で私は、自分の霊がしぼんでしまわないために何が必要かを考える必要があった。
信仰アドバイザーとのつながりが私にとってますます重要になったことはその一例だ。ほかにも、自分の霊性を整えるための取り組みを続けていった(沈黙の時間を持つこと、聖書を読むこと、祈ること、自然と触れ合うこと、霊的な成長のための書物を読むこと、信仰共同体とのつながりを保つことなど)。
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自分の信仰の旅路について考えるとき、「何が自分を満たし、聖霊に心を開かせるのか」を考えてほしい。あなたとパートナーの旅路をサポートしてくれる人たちとの連絡を保とう。そして、神に心を開き続けられるような関係性、その習慣を実践し続けてほしい。
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3 生活をペースダウンする
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夫が信仰から離れることを宣言してから2カ月後、私はチャプレンとしての新しい仕事を見つけた。それは素晴らしい仕事で、自分にもぴったりなものだったが、その3カ月後にはその職を辞することになった。その間に私は、「痛みから逃れようとしている」自分の姿を明確に感じるようになったからだ。
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辞職には自責の念があった。それは、「女性が仕事をすること」や「子どもをベビーシッターに預けること」が悪いことだと思うからではない(私にはベビーシッターが必要だった)。私は自分自身から逃げ出そうとし、夫から逃げ出そうとし、神から逃げ出そうとしていたのだ。私には、この狂気を食い止める必要があった。私は自分の肉体と感情を手当てする必要があったし、そのためのセラピーを必要としていた。
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その後、私たちは小さな家に引っ越し、かなり生活をペースダウンすることにした。二人がそれぞれのプロセスを歩むための条件を整えるのは簡単ではなかったが、それはやがて大きな成果をもたらした。話し合ったり、考えにふけったり、自分の内面と向き合うための時間が生まれたのだ。祈る時間も増えた。
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4 気遣いを実践する
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「隣人を愛せ」というキリストの命令ほど、特に自分がベッドを共にする相手のことを考える時に心に刺さることはない。世界観が違う相手との結婚生活では特に、自らのことを気遣いながらも、信仰の再構築を経験しているパートナーのことも気遣う必要がある。
自分たちのあるがままを受け入れるとき、私たちの中には深淵で誠実な思いが湧(わ)いてくる。それは真実の祈りを生み、私たちと神を密接に結びつけるだろう。そのようにして私たちは、「隣人を自分のように愛しなさい」というイエスの言葉に従うことができるようになる(マルコ12:31)。
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あなたのパートナーは、堅苦しいイエスには興味を示さないかもしれないが、キリストの霊によってもたらされる誠実な気遣いを拒否することはないだろう。私自身の結婚生活を振り返ると、それは「自ら実践してきたもの」というより「訓練され続けてきたもの」だが、それでもその努力によって得られた夫との時間は、誠実で、私の心を謙虚にさせるものだった。
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5 自己防衛モードに入らない
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信仰を離れようとする誰かに接するとき、私たちは自分の立場を守ろうとして、つい気分の悪くなるような議論を吹っかけがちだ。私たちは信仰を「脳の中で起こる出来事」のように捉えたり、その人の心を「取り戻そう」と神学論や存在論、哲学論などの論点で立ち向かったりしようとする。そういった言い争いは、(常にではないが)口撃と自己防衛の応酬になってしまうことが多い。確かにそのような会話が必要な時もあるだろう。しかし、それが対話の主眼になってしまうと、聖霊の働きかける力は途切れてしまう。
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自己防衛モードに入ることを避けられれば、相手の体験したことに興味を持ち続けられ、「私たちには相違点がありすぎる」と思うような時にも、過剰な混乱に陥らずにすむだろう。
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6 相手の(そして、あなた自身の)真実のアイデンティティーを忘れずにいる
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「神は人を自分のかたちに創造された」(創世記1:27)とあるように、あなたが結婚した相手は、本人が受け入れるか否かにかかわらず、神の姿にかたどられて造られている。つまり、相手の真のアイデンティティーは、その人の世界観(無神論や不可知論などの新しい世界観)ではなく、神の手の内にあると言えるのだ。
「神は愛」(1ヨハネ4:8)と使徒ヨハネは語り、「万物は御子によって、御子のために造られた」(コロサイ1:16)とパウロは語った。あなたのパートナーは愛によって、そして愛のために造られたのだ。あなたのパートナーにもあなたにも、その真実を変えることはできない。
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恐れに取り込まれそうになるとき、私はいつも神の愛という現実に安らぎを得る。夫は、私が理解できないほどの(神の)愛を受けているのだ。
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7 パートナーのため(そして、あなたのためにも)物事を受け止めるためのスペースを確保しよう
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この数年間、毎日のように夫と信仰について話した後に、数カ月間それを休む期間があった。そのとき私たちは、哲学や神学の議論から距離を置かなくてはいけない状況にあった。私自身、心の痛みを抱えながら議論を続けることはできなかった。
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そのとき私は、「激しいやりとりから少し距離を置きたい」と言ったのだが、もし彼がそれを求めるなら、「喜んで私自身が歩んでいる信仰の旅路の物語を話すわ」とも伝えた。それまでに私は、「彼の経験を聞く時には、裁かずに耳を傾ける」ということを学んでいた。この「スペースの確保」という実践は、私たち自身とその関係性を守ってきた。
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8 友情を深める
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どんな結婚生活においても、共通の関心事を見つけることは価値あることだ。そして、そういった共通項を持つことは、異なる世界観を持つ二人が結婚生活を送る時にますます重要となる。自転車に乗ったり、自然を楽しんだり、一緒にライブを聴いたりするなど、以前より多くの時間を使って私は夫と友情を深めている。「彼が一緒にいる」という喜びを味わうことは、神の栄光と美しさの中にある充実した生活を送る方法であり、私たちが持つ「信仰を共有していない」という傷を和らげるものだ。
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9 子どもたちのために祈り続け、信徒訓練を続ける
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子どもの信徒訓練は、両親共にクリスチャンの家庭であっても簡単なものではない。両親が信仰を共にしないのであれば、それはなおさら難しい。私が最も深く求めているのは、子どもたちがその人生の中でキリストの愛を経験することだ。それ(キリストの愛)が存在するのかどうかさえ分からない人と一緒に子育てをすることには独特な難しさがある。
小学校に通っている子どもたちは、まだ哲学的な議論ができるような年齢ではないものの、神学や人間の起源について質問をするには十分に成長している。今のところ私は、そうした質問に答えながら、聖書の教えを伝えることに時間を割いている。
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私はほとんど毎朝、食卓で子どもたちに聖書を読んでいるが、ありがたいことに夫は別に不愉快になるわけではない。私たちが以前結んだ「子どもたちを信仰的に育てる」という約束を彼は守ってくれているのだ。
いま彼は子どもたちに自らの信仰の旅路の話を伝えるつもりはないらしく、「なんで教会に行きたくないの」、「聖餐を受けたくないの」といった子どもたちの質問には、「お父さんはいま神さまとお話をしているんだよ」と答えている。しかし、いつか自らの物語を明かさなければならない時が来ることは私も彼も承知している。それまでの間に私は、子どもたちの幼くやわらかい心のために祈りながら準備を続けるつもりだ。
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10 キリストの体に寄りかかる
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信仰の友を頼りにし、信仰アドバイザーやほかの人から話を聞く中で私は、「分断された家族ではなく、愛情ある家族を作ろう」と思えるだけの勇気と知恵を与えられた。また、家族や友人、教会とのつながりを通じて、自分の子どもたちが多様な年齢の信仰者に囲まれて育つように配慮してきた。教会は、説教や聖書を読むこと、聖餐を通じて、私たちの魂を常に養ってくれる場所となった。
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この旅路を通して神は私に、「クリスチャンの弟子として最も困難なこと」を行うように迫られているのだ。それは、「自分が夢見た人生を手放し、イエスの復活の力によって人生を何度も再構築すること」だ。これは教会なしにはなし得なかっただろう。
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信仰の再構築のただ中にあるパートナーを持つ人々に伝えたい。あなたはその状況のことを、立ち止まって耳を傾けるための機会ではなく、何か解決しなければならない問題のように感じることがあるだろう。しかし多くの場合、この問題は解決不可能で、私たちには現状維持を試みることしかできないたぐいのものだ。
私たちは自分の手を開いてパートナーの手を握ることで、共に神の手を握り、また「神は私たちのことを握りしめてくださっている」ということを信じられるようになる。神は昔も今も、「私たちが願い、考えることすべてをはるかに超えてかなえることのできる方」なのだ(エフェソ3:20)。
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それは難しいプロセスだし、そこから逃れる道はない。しかし、それは奥深い素晴らしさを持っていることもある。
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執筆:キンバリー・ペンロッド・ペルティエ
本記事は「クリスチャニティー・トゥデイ」(米国)より翻訳、転載しました。翻訳にあたって、多少の省略をしています。