終わりではなかった
2017年4月23日 復活節第二主日
(典礼歴A年に合わせ3年前の説教の再録)
信じない者ではなく、信じる者になりなさい
ヨハネ20:19~31
その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸にはみな鍵をかけていた。(ヨハネ20:19)
「その日」とありますが、これがどういう日なのかというと、「復活の日」のことです。イエス・キリストの復活の日の夕方の出来事ということです。
今日の福音を聞くために、この最初の状況がどういうことであるのかを理解しておくことがとても大切なことなので、少し確認をさせていただきます。
「ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸にはみな鍵をかけていた」とあります。原文では「戸」という言葉が複数形になっていますから、「戸という戸に鍵をかけて閉じこもっていた」ということになります。
どうして閉じこもっていたかというと、「ユダヤ人を恐れて」と書いてあります。3日前にイエスを殺したユダヤ人たちが、その弟子である自分たちも殺しにくるかもしれないという恐れのために、「戸という戸に鍵をかけて、家の中に閉じこもっていた」ということです。
でも、閉じこもっていたのは恐れのためだけではなかったと思います。そうではなく、きっと弟子たちはもう死にたいような気持ちになっていたのだと想像されます。
なぜでしょうか。3日前、イエスが十字架にかけられるまで弟子たちは、「私たちも行って、一緒に死のうではないか」と言い(11:16)、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません」(マタイ26:35)と豪語していたのです。
ところが、イエスが捕らえられる時、弟子たちはみんな、全員、一人残らず逃げてしまいます。そして、イエスが十字架にかけられた時も、弟子たちはそこにいませんでした。
弟子たちはといえば、それまですべて捨ててイエスに従ってきたのです。大の男が仕事も捨てて従ったのです。ところが最後の最後で、そのお方を見捨てて逃げてしまった。
そういう状況の中で弟子たちは、もう取り返しのつかないことをしてしまって、ある意味、「何かもう終わってしまった」、そんな思いの中で、死にたいような気持ちの中で、でも、それにもかかわらず死を恐れて、部屋に鍵をかけて、誰にも会いたくないような気持ちで閉じこもっていたのだと考えられます。それが今日の物語の始まりです。
そこにイエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われたのです(ヨハネ20:19)。
「平和」とは、神さまが共にいてくださるという「神の真実」のことです。
つまり、こういうことです。イエスを見捨てて逃げてしまったあなたたち一人ひとりの中に平和があるように。神さまは共にいて、人間は神さまから逃げても、神さまは決して逃げない。それが「平和」ということの意味だと思います。
イエスさまははっきりとそのことを告げられたのです。それで「弟子たちは、主を見て喜んだ」とあります(20節)。
神さまは、私たちがどんなことをしても、何があっても決して私たちからは離れません。それが、聖書が述べる「平和」です。
もし自分の中に、「もう取り返しのつかないことをしてしまった」、「もう自分は終わってしまった」、そんな思いがあるのだったら、「終わり」と思うそのことのもっと奥に、永遠といういのちの神さまが共にいてくださる。戸には鍵がかけてあったのに、その真ん中に神さまが共にいてくださるという真実が立ち上がってくる。これが「復活」です。
私たちにとっての最大の終わりは、ある意味で死と言えると思います。でもイエスは、「死を超えて、永遠といういのちの神さまが共にいてくださるのだよ」と教えてくださいました。
自分の中にも、人の中にも、神さまが共にいてくださいます。一緒の向きで生きてくださっているのだと思います。
私たちの目には見えません。でも、その真実を見て、その真実の中で生き、その真実の中で死に、その真実の中で復活してくださったキリストが私たちと共にいてくださいます。そして、その真実に出会わせていただく恵みが「洗礼」です。
これから幼児洗礼式になります。
「父と子と聖霊の御名によって、あなたに洗礼をさずけます」と言って水が注がれる時、イエス・キリストとの出会いのいのちである聖霊が注がれ、自分の中に、死を超えて生きるいのちであるキリストが一緒に生きてくださっていることを分からせていただいて生きるいのちになっていきます。
キリストは復活されました。私たち一人ひとりの中で復活され、亡くなられたすべての人の中にも復活してくださっています。そのことをご一緒にお祈りし、洗礼によって新しいいのちの出会いに結ばれる幼子のためにも、家族のためにもお祈りをしましょう。