「聖書協会共同訳」(日本聖書協会)の刊行1周年を記念して、松永美穂(まつなが・みほ)さん(早稲田大学文学学術院教授)と佐藤裕子(さとう・ゆうこ)さん(フェリス女学院大学文学部教授)によるトーク・イベントが20日、ジュンク堂書店池袋本店で行われた。ドイツ文学研究者で翻訳家の松永さんは日本語翻訳担当として、日本文学研究者の佐藤さんは日本語翻訳兼編集者として新翻訳聖書事業に携わった。今回は「聖書と文学──聖書は文化の源泉であり、古今の文学に影響を与えてきた」をテーマに、聖書翻訳と一般文学の翻訳との違いなどについて語り合われた。
──中世以降、キリスト教が根づいたドイツで、聖書はドイツ文学にどのような影響を与えてきたのでしょうか。
松永:南ドイツのヴェッソブルン修道院で発見された、8世紀末頃に書かれた「ヴェッソブルンの祈り」が始まりだといわれています。短いものですが、キリスト教の信仰を受け入れた喜びが伝わるような内容です。今と違って、当時は誰もが読み書きができるわけではないので、ゲルマン民族に聖書の教えを分かりやすく伝えるために書かれたものが、ドイツ語文学の原点ではないかと思います。
──聖書は日本の近代文学にどのような影響を与えたのでしょうか。
佐藤:いろいろな作家に影響を与えていて、たとえば真偽のほどは分かりませんが、4年間ドイツで過ごした森鷗外はカトリック教会のミサに参加したといわれています。また東北大学付属図書館には、夏目漱石が宣教師グレース・ノットの母親からもらったという聖書が保管されています。かなり読み込んでいて、書き込みもたくさんされているんですよ。芥川龍之介が自死した部屋からも聖書が見つかっていたり、太宰治の作品にも、聖書に影響された表現が多く見られます。
──16世紀にはルター訳聖書が発行されますが、それは近代以降のドイツ文学にどんな影響を与えていますか。
松永:それまでのドイツでは、地域ごとに方言で話されていたのですが、ルターが聖書を訳したことで近代ドイツ語が生まれたといわれています。
近代以降の代表的な作品にゲーテの『ファウスト』が挙げられますが、それより前に書かれた「民衆本ファウスト」の序文には、「この本は、みなさんがファウストのような悪人の真似をしないよう、キリストの教えから離れないために書くのだ」というようなことが書かれているんですね。とても面白いので、ぜひ読んでみていただきたいです。
また、日本ではアニメが有名な『ハイジ』の原作では、キリスト教の要素が色濃く見られます。アニメではクララが立つシーンで物語が終わりますが、原作ではペーターのおばあさんが神様を賛美する祈りで終わっています。頑固で人間嫌いのおじいさんが再び教会に行くエピソードなど、大人が変えられていくストーリーとして描かれているのです。
──ドイツと違って、日本でクリスチャンは全人口の1%に満たないといわれていますが、近現代の日本文学にも聖書は影響は与えているのでしょうか。
佐藤:八木重吉や堀辰雄、遠藤周作、三浦綾子など、クリスチャン詩人や作家の作品もありますが、ゲーテやシェイクスピアを通して聖書の要素が取り入れられた作品は多いようですね。
漫画やアニメにも影響されている作品があって、アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」では、初号機が磔刑のキリストをモチーフにされていたり、聖書の言葉もダイレクトに使われています。私の授業でも取り上げているマンガ『聖(セイント)☆おにいさん』もそうです。イエス・キリストとブッダが東京の立川でバカンスを楽しんでいるという物語なんですが、キリスト教と仏教の正しい知識が描かれています。とっても面白いんですが、壮大なアイロニーが詰まった作品でもあります。
──今回の翻訳事業について。
松永:一般書の翻訳と違って、聖書翻訳はチームで行うんですね。元の言語から翻訳する人がいて、その訳文をチームでさまざまな観点からバージョン・アップするという作業の繰り返しでした。言葉は刻々と変化しますから、どのように伝えるのがいいのか、また聖書特有の言い回しを残すのか変えるのか、何度もディスカッションしました。数ページを翻訳するのに1日がかりだったこともあります。
佐藤:直訳としてもおかしくなく、さらに朗読して自然に聞こえるようにするため、言葉を整理するのに苦心したり、いろいろなことがありました。私にとってこの6年間は、最新の聖書学の知識を教えていただきながら翻訳に携わることができた至福の時でした。
※「聖書協会共同訳」は現在、中型(B6)版や小型(A5版)など紙媒体のみだが、2020年1月よりスマートフォンやパソコンでも読める「ウェブバイブル」の提供も予定している。