神様、憐れんでください、私を、罪人の
2016年10月23日 年間第30主日
(典礼歴C年に合わせ3年前の説教の再録)
神様、憐れんでください、私を、罪人の
ルカ18:9~14
今日の福音でイエスさまは、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」(ルカ18:9)に向けて話されました。その代表が「ファリサイ派の人」です。
今日の箇所では、「正しい」(9節)という言葉と「義とされて」(14節)家に帰るという言葉が対応関係になっています。もともとのギリシア語では同じ言葉が使われているのです。つまり、ファリサイ派の人が「正しい」とされずに、徴税人が「正しい」とされて家に帰ったという話です。
私たちは「正しさ」についていろいろと考えます。「どっちが正しく、どっちが間違っているのだろう」、「どの人がより正しいのだろう」、「いちばん正しい人は誰だろう」、あるいは「あの人よりも私のほうが正しい」と考えるかもしれません。
でも、聖書の中で「正しさ」というのは神さまのことです。神さまの「正しさ」の前に、私たち人間がどれくらい正しいというようなことは、ほとんど何の意味も持ちません。
ところが、ファリサイ派の人は「自分が正しい」と考えていたので、イエスさまはそのことを正すために、たとえで話されたのです。
「自分は正しい人間だとうぬぼれて」という言葉を直訳したら、「自分は正しい人間だと(自分に)より頼む」となります。つまり、自分の行いの「正しさ」により頼むという意味です。
「他人を見下している」と訳されている言葉は、もともとは「何にもない」という言葉です。つまり、「人なんか何もない者だ」と思っている。そんな感じの表現ですね。
でも、イエスさまの眼差しは違うでしょう。人間の中には神さまがお住まいになっています。これが神の「正しさ」なのです。それなのに、自分がやっていることの「正しさ」に立ち、「人なんか何でもない」というのは的外れでしょう?
「正しさ」というのは神さまのことです。そして、その神さまが人間一人ひとりの内に住んでおられることが「神の正しさ」だとイエスさまは教えられたのです。
「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(13~14節)
ここで私たちは、絶対的で公平な審判者としての神さまが、「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と裁かれるイメージを持つかもしれない。でも、違うと思います。
「へりくだる者は高められる」という言葉の意味ですが、「自分」というところに立つのではなく、「共にいてくださる神さま」にただただ目を向け、そこに眼差しを向け、そこに正しさを認める者は、「共にいてくださる神さまの正しさ」に出会わせていただくということなのだと思います。この世でへりくだっておけば高められ、この世で高ぶっていると低められるという処世術のことではありません。
最後に、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(13節)という徴税人の祈りも、「自分は罪人です」とへりくだっておくというようなこととは違います。
私も以前は、結局「私」「私の罪」という「自分」に重心が向けられているような気がして、この祈りはそんなに好きになれませんでした。でも、今は違った見方で見るようになりました。
この言葉も元々の表現では、語順はこんなふうになっています。「神さま、憐れんでください、私を、罪人の」
この語順で10回でも20回でも祈ってみたら、この祈りがどこに向かっているかが分かると思います。「私」に向かっているのでも、「私の罪」に向かっているのでもなく、ただただ「憐れんでくださる神さまの憐れみ」に向かっていることが分かると思います。
ファリサイ派の人は、自分の「正しさ」に目を向けました。もしこの徴税人が「自分の罪深さ」だけに目を向けるのだったら、的外れという意味でファリサイ派の人と一緒でしょう?
でも、この徴税人は自分の罪深さに目を向けているのではなく、「憐れみであるお方」に眼差しを注いでいるのだと思います。自分の罪深さにもかかわらず、共にいてくださる神さまの「憐れみ」にただただ目を向けているのが、この徴税人の祈りです。
そして、そんな自分のような者にも神の憐れみが寄せられているということに出会わせていただいたならば、私たちは人の中に「何もない」を見るのでしょうか。いや、神のいのちが「ある」を見る者になるのではないでしょうか。
私たちも、「神さま、憐れんでください、私を、罪人の」と、神さまの「憐れみ」に目を向けさせていただくなら、神さまの「正しさ」に出会わせていただいて、今度はその「正しさ」によって、人の中に神さまがお住まいになっている真実を認めさせていただくのではないのかと思います。