出来事の中に神の働きを「見る」
2016年10月9日 年間第28主日
(典礼歴C年に合わせ3年前の説教の再録)
あなたの信仰があなたを救った
ルカ17:11~19
重い皮膚病を患っている10人が、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言いました(17:13)。イエスはその人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われたとあります。
「見て」というのは、もともとのギリシア語では「エイドン」という単語が使われています。目に見えるものごとのその奥にある真実を洞察するようなことを表します。
実は今日の福音の中に、もう一回この「エイドン」が出てきます。「その中の一人は、自分がいやされたのを知って」(15節)の「知って」というところです。
イエスさまが見て(エイドン)、そしてイエスさまにそのように見られた人が、イエスさまの内に神の力を見て(エイドン)、賛美しながら戻って来た。今日の福音はこういう出来事になっています。
今日の福音を少し深く理解するためには、当時の決まりを知っておく必要があります。医療が発達していなかったこの当時、危険な重い皮膚病かそうでないかを判断するのは祭司の務めでした。律法に書かれている事細かな規定に従ってその人を見て、重い皮膚病として「汚れている」のか、「そうでない」のかを判断しました。
「汚れている」と判断されたら、その人はもう共同体で一緒に住むことができなくなり、村や町のはずれの谷や崖や洞窟に追いやられて、隔離された生活を余儀なくされました。そして、汚れた者であることが分かるように、髪の毛をほどき、服を裂いてバラバラにしなければならなかったのです。口から出る息で人を汚さないように、顔半分を覆わなければならなかったのです。そして人に会うと、「私は汚れています」と大声で呼ばわって、人との接触を避けるように命じられていました(レビ記13:45参照)。このようにして完全に人との関わりを絶たれたのです。
そしてもっと恐ろしいことは、神との関わりも絶たれたということです。当時、病気や障がい、災い、貧困などはみな、犯した罪の罰だと考えられていたからです。病気になれば、「ああ、あれは罪の罰を受けているのだ」と人に見られました。自分自身も、「きっとあのことの罰を受けているのだ」と考えざるを得ませんでした。
人々からは切り離され、さげすまれ、物理的にも精神的にも断絶した状態に追いやられ、神からも見捨てられ、自らも否定して生きなければならなかった。それが、重い皮膚病を患っている人たちが置かれていた状況でした。
しかしイエスさまは、その一人ひとりの中に神さまのいのちがあることをご覧になったのだと思います。
ところで、子どもの頃から私に「神父になれ」と言われていた神父さんのところに行って、ゆるしの秘跡、告解をしたことがあります。そうしたら神父さんはあきれて、「お前は神父にならなくていい」っておっしゃるかもしれないと思ったのです。
でもその神父さんは、「もっと他にないのか」という感じだったのです。神さまの赦しが完全に大前提として奥底にあって、「そんなものに引っかかっていなくていいのだ。引っかかっているものはもっとないのか。一つでも残さないように」という感じでした。私はこの時、漠然と、「ああ、神さまとはこういう方なのだな」と思いました。
彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを知って……(14~15節)
つまり、癒やされたことを「見た」のです。自分の奥底に神のいのちがあることを見ていただいたことを「見た」のだと思います。
神を賛美するために戻ってきた一人のサマリア人は、病気にかかっていたけれど、イエスさまはそんなことをまったく通り越して、自分の最も奥深くに神さまのいのちがあることを「エイドン」、見てくださった。そういう体験をしました。
見てもらった時、その人は、自分と共にいてくださる神さまの真実の中に入って、今度はイエスさまを通して神さまの癒やしとまなざしが注がれたことを「見た」、「エイドン」したのだと思います。
ミサというのはすごいところで、イエスさまが直接、じゃんじゃん話しておられる場所です。
「みなこれを取って食べなさい。これは、あなたがたのために渡される私の体である」とイエスさまが言われるのです。「神父が言っているだけだ」と考える可能性はあっても、イエスさまが言っておられるのです。そのことを「見る」ならば、「エイドン」するならば、イエスさまがおっしゃっているのだから、「はい」と言って食べる。ミサとは、そういう信仰への招きなのだと思います。
ミサは、神さまの言葉、イエスさまの言葉に満ちています。それを私たちはみんな「聞いている」のです。エイドンさせていただく恵みを願って、お祈りしたいと思います。