腰を据えて、神の真実か自分の考えかを考える
2016年9月4日 年間第23主日
(典礼歴C年に合わせ3年前の説教の再録)
自分の十字架を背負ってついてくる者でなければ
ルカ14:25~33
今日の福音の中でイエスさまは3回、「わたしの弟子ではありえない」と言われます(ルカ14:26、27、33)。
「自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」(26節)。「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」(27節)。「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」(33節)
「自分のいのちを憎んで、私の弟子になりなさい」、「自分の十字架を背負い、私について来て、弟子になりなさい」、「持ち物を一切捨てて、私の弟子になりなさい」ということです。
ところで、「これを憎まないなら」と言われています(26節)。ヘブライ語には比較級がないので、「より少なく愛する」という意味で「憎む」という言葉を使うそうです。つまり、自分のいのちや持ち物より、イエスさまを愛する歩みが「イエスさまの弟子になる」ということです。
「イエスの弟子になる」とは、イエスと一緒に生きることです。
イエスさまは、「インマヌエル」、つまり「神が我々と共におられる」という真実を1番にして生きました。「イエスと一緒に生きる」とは、私たちもインマヌエルのイエスと一緒に生きるということです。ですから、私たちの目の前にいる人に「神さまが共にいてくださる」という真実を認めて生きること。何があってもそれを第1番にして生きることを「イエスの弟子になる」と捉えてよいと思います。
しかしその時、その真実を認められないこともあるかもしれません。納得いかないこともたくさんあるでしょう。「何でそんなことを認めなくてはならないのか」、「絶対そんなことをしたくない」という思いもあるかもしれません。
でもそれを置いて、「神さまが共にいてくださる」という真実を1番にする。これを「自分を憎む」という表現で表しています。自分の思いよりも神さまの真実を先にして生きることが「自分のいのちを憎む」の意味です。
イエスさまは、「これをしないなら、私と一緒に生きるということにならないよ」、「ただついて来るだけでは一緒になれないよ」とおっしゃるのです。
ご自分の中に、「あの人だけは赦(ゆる)せない」という人がいらっしゃいますか。もしあったら、その人に向かって「神さまがあなたと共におられます」と祈ることは時に非常に難しいかもしれません。
でも、認める。これが「自分の十字架を背負って(イエスに)ついて来る」(27節)という言葉の中身です。
イエスさまは十字架の上で、こう祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)。「彼らは、自分の中に神さまが一緒にいてくださることを知らないのです」と言い換えてもいいかもしれません。
それでも私たちは、自分の気持ちや納得、理解、感じ方を上にしてしまう。「それでは駄目なんだよ。私と一緒にはなれないよ」ということを何とかして教えるために、イエスさまは二つのたとえ話をなさっています。
この二つのたとえの構造は一緒です。どちらも、自分の力では何ともならない例が挙げられています。塔を建てる話(28~30節)と、強い相手と戦う話(31~32節)です。
自分で「永遠のいのち」を完成できないのに、自分の力でそのことをしようとするのは愚かだろう。土台を築いただけで完成できず、笑われることになるだろう。1万の兵で2万の兵に向かって行って全滅するのは愚かだろう。こういうたとえ話です。
神さまは、すべての人と共におられます。神さまだけが永遠のいのちを持っておられます。私たちがそう感じられなくても、納得がいかなくても、そのことは真実です。
共にいてくださる神さまの真実にかけますか。それとも、自分の感じ方や思いや納得にかけますか。イエスさまは、「神の真実にかけて生きるようにしなさい」とおっしゃっているんです。
さあ、腰を据えて考えるために、今日も私たちはここに招かれました。依然として自分の理解や納得、思いや感覚に頼りますか。永遠のいのちを完成することなどできない頼りないものに頼りますか。
腰を据えて考えましょう。そして、「神さまがあなたと共におられる」と認められない人がいるなら、どうぞ「神さまがあなたと共におられます」というお祈りをなさってください。一人では絶対できないという方がいらしたら、どうぞ私を捕まえてでも、電話をしてでもいいから、言ってください。私も非力ですけれども一緒に祈らせていただきます。
神さまは共におられます。認めなければなりません。イエスさまは今日、私たちにそういうことをおっしゃっていると思います。