日本福音同盟(JEA、廣瀬薫理事長)の新総主事に岩上敬人(いわがみ・たかひと)さん(イムマヌエル綜合伝道団牧師)がこの4月から就任した。JEA総務局のあるお茶の水クリスチャン・センター(東京都千代田区)を訪ね、岩上氏に自身のことやJEAについて話を聞いた。
──岩上先生のご経歴について教えてください。
私は1968年、和歌山で牧師の息子として生まれました。両親は、84年からイムマヌエル神戸キリスト教会牧師(2011年から協力牧師)をした岩上輝雄と朝子、兄は同教会の現在の牧師である岩上祝仁(いわがみ・のりひと)です。高校生の時に召命を受け、90年に関西学院大学文学部英文科を卒業後、イムマヌエル聖宣神学校に進みました。
94年、神学校を卒業してすぐ、父の牧会する神戸教会に副牧師として赴任したのですが、翌年1月17日、阪神・淡路大震災が起こります。この時の経験が、後にJEAの働きに携わらせていただくきっかけになったと言ってもいいかもしれません。
その年、米国ケンタッキー州にあるアズベリー神学大学院に留学し、98年に神学修士を、さらにその後は2004年まで英国のマンチェスター大学大学院で学び、新約聖書学パウロ研究の博士課程を修了しました。著書に『パウロ──ギリシア・ローマ世界に生きた使徒』(いのちのことば社)、『パウロの生涯と聖化の神学』(日本聖化協力会出版委員会)など、訳書にN・T・ライト『使徒パウロは何を語ったのか』、『ティンデル聖書注解 ピリピ人への手紙』(いのちのことば社)などがあります。
帰国後は1年間、高崎泉キリスト教会牧師と、3年間、別府キリスト教会副牧師をしながら中津伝道所で牧会にあたり、2007年から派遣宣教師として、ジャマイカ南西部にあるカリビアン・ウェスレアン・カレッジで神学教育に携わりました。帰国後は狭山キリスト教会、そしてこの3月まで武蔵村山キリスト教会で牧師をしながら、イムマヌエル聖宣神学院やお茶の水聖書学院の教師、東京基督教大学や東京聖書学院(日本ホーリネス教団の神学校)で非常勤講師も務めています。
──阪神・淡路大震災の際にどのような体験をされたのでしょうか。
毎朝6時から行う早天祈祷会のため、部屋を暖めるなど準備をしていた時に震度7の揺れが起きました。まるで洗濯機の中に入れられて、ぐるぐる回されているような大きな揺れです。まだ寝ていた祖父の上に本が落ち、埋もれてしまったため、助け出すために本をどける作業から始まりました。
幸いにも、鉄筋コンクリートでできた教会の建物は無事だったのですが、教会があった神戸市長田区は木造住宅が多い地域で、周辺にあった住宅の多くは倒壊してしまったため、教会を避難所として開放しました。さらに、近所の鷹取商店街で火災が発生し、教会のほうにもどんどん火が迫ってきたため、別の場所へ避難しました。
当初は被害状況がまだはっきりせず、亡くなった方は数十人と報道されていたのですが、町全体が真っ黒い煙に覆われているのを見て、これは数千人規模の被害者が出るのではと思っていました。実際に、教会のすぐ近くでも100人近くの方が亡くなりました。私自身も倒壊した家屋の下敷きになった近所の方の救出作業に加わりました。
──この時の体験がきっかけになり、災害支援について強い思いを持たれるようになったのでしょうか。
実は、阪神・淡路大震災が起こる前から留学が決まっていたため、震災直後に私は渡米したのです。震災後のたいへんな時期にその場所で何もできなかったという後ろめたさから、ずっとこの体験や記憶を封印していました。
その後、2011年に起こった東日本大震災を契機に、「自分に何かできることはないか」という思いから、クラッシュ・ジャパン(キリスト教被災者支援団体)を通して被災地の支援活動に取り組むようになりました。さらに、援助協力委員としてJEAの働きに携わることになり、前任の総主事だった品川謙一(しながわ・けんいち)先生と一緒に、おもに災害対応の面で奉仕させていただきました。
──東日本大震災の時には、どのような活動をされていたのですか。
クラッシュ・ジャパンでは、被災地にある教会や教会ネットワークなどの団体と協力しながら、各地の被害状況を確認し、情報を発信するほか、支援物資の募集や、世界中から2700人を超えるボランティアの派遣、ボランティア・センターの運営などを行っていました。現在も、JEAをはじめ、日本福音主義宣教師団(JEMA)、DRCnet(災害救援キリスト者連絡会)などと連携を取りながら支援活動を行っています。(後編に続く)