非暴力運動 林哲夫先生の思い出 小出雅生 【この世界の片隅から】

林哲夫という台湾の先生をご存じだろうか。残念ながら2023年8月22日に帰天されたが、台湾では「非暴力運動の〝ゴッドファーザー〟」と呼ばれている先生の思い出を紹介したい。

林哲夫先生とは、2002年9月に臺灣・花蓮で行われたアジアキリスト教協議会の研修会で、講師のお一人としてお会いした。ただ、先生は「いやぁ、日本時代の小学校を卒業しただけなんで」としかおっしゃらなかったので、カナダの大学教授だということをしばらく知らずにいた。それでも、英語で行われた研修会の合間、私にはよく日本語で話してくださった。口ひげを蓄え、笑顔で話される姿は日本昔話に登場するおじいさんという風体で親しみを覚えた。私の父とも年が近く、印象深い出会いとなった。

その後、私はアジアでYMCAや教会青年部、学生キリスト教団体の地域での交流・協力を促進するEASY Net(Ecumenical Asia Student and Youth Network)の仕事をすることになり、台湾の長老派教会の総部にも時々訪問していた。そんな時も、林先生の事務所が青年部と同じフロアにあった関係で、打ち合わせをしていると後ろから「ご苦労様です」とおっしゃって横を通り過ぎられた。そして、合間の時間でよく立ち話もさせてもらった。

戦後、台湾で戒厳令が敷かれて、日本語が禁止されていた話はその時にうかがった。そして、「慣れ親しんだ日本語が話したくてね~。当時、『太陽族』とか日本の映画が上映されると、よく映画館の中でセリフに合わせて日本語で合いの手を入れたもんです。その辺に座っている知らない人とも日本語で話すんですね。映画館の中、暗いから警官にも分からないから」と話されたショックは忘れられない。言葉はまた残酷なものだ。

2002年9月、カトリック花蓮司教館研修センターで(筆者撮影)

林先生は事務所で原稿を書かれている時も、時折、中文の原稿を周囲の幹事さんに見てもらっておられた。笑いながらも「慣れないもんでね。きちんと伝わるか見てもらっているんです」とおっしゃっていた。私の中で、言葉を押し付けたもの、取り上げたもの、奪われたもの、言葉が分かつもの、いろいろな思いが錯綜した。どうして、日本時代の小学校しか出ていない、とおっしゃったのだろうか。

その後、淡江中学で学ばれたが228事件で当時の校長先生や物理の先生が殺されている。それからカナダに留学される。兵役時代に3度ばかり死にかけたそうだが、生き抜けなかった人の分も別人になったつもりで生きざるを得なかったのではないかと思う。その後、世界キリスト教協議会のURM(都市農村伝道部)に出会われたことで、非暴力運動の指導者となられ、台湾でジーン・シャープとも協力して活躍される。

一度、228事件について聞いてみた。日本で買ったCDの中に、228事件の時に歌われたという「幌馬車の歌」が入っていたので、再生したが、先生は聞いたことがないですね、とおっしゃっていた。同じ台北にいても、いろいろだったということだろう。

香港についてもメールをさせていただいたことがあった。非暴力でもあちらから暴力を受けた時、どこまで自分の身を守っていいのか、今でも結論が出ていない。カナダからもらう返事は英語で書かれていたが、それでも「Tetsuo」と書かれていた。

哲夫先生に限らず ここ数年 お世話になった方々をずいぶん見送った。追いかけてきたつもりの私も、それなりの年齢になったことを感じる。それだけに、アジアの植民地の歴史を乗り越えるべく行ってきた和解の作業が成し遂げることができないまま、次の世代にゆだねることになりそうで忸怩たる思いである。

こいで・まさお 香港中文大学非常勤講師。奈良県生まれ。慶應義塾大学在学中に、学生YMCA 委員長。以後、歌舞伎町でフランス人神父の始めたバー「エポペ」スタッフ。2001年に香港移住。NGO勤務を経て2006 年から中文大学で教える。

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