安易に伝道者になるな
若い伝道者が戦列から離れることがないためにと言いながら、戦列を離れるどころか、戦列に加わるなと言っているのであるからいぶかしく思われるだろう。
しかし、これは伝道者であることの原点を確認しておくことが出発点であると信じるからである。
もちろん、誰一人として安易に伝道者になった者はいないはずである。主の召しをいただき、それを信じてすべてを捨てて主に従い伝道者になったのである。そう信じて疑わない。もし、それを自分が信じられないなら伝道者を辞めていると誰もが思っている。
しかしである。意地悪く言うと、小生たち伝道者は、本当は伝道者であることに疑問を持ちつつも、主の召しを信じなければ伝道者を続けられないため、続けるために召しと信じ続けようとしていることもあるのである。
先に牧師の引退のことで述べた『牧師の仕事』と同タイトルで、別の一冊がある。これはスコットランドの牧師が約半世紀も前に著したものである。その中に恐ろしいことが書いてあった。正確ではないが、大意は次のようであった。
「自分が本当に主の召しによって伝道者になっているかどうか検討してみるべきである。もし、主の召しではないと思ったら、誠実に牧師職を離れるべきである。現在牧師である者の多くが本来牧師としては召されていない者である」というような内容である。
もちろん、スコットランドで半世紀の前のことだから、この21世紀の日本とは状況が違うだろう。しかし、本当に主の前に問い直し、自分が主に召されたのではないと思うときは、牧師職を辞めることが最も誠実な信仰である。また、自分だけはなく、先輩や会衆によっても主の召しを確認してもらい、それに耳を傾ける勇気が必要である。それは伝道者自身の人生にとっても、主の教会の徳のためにも重要である。
なるヤツだけがなれる
指揮者の岩城宏之さんが指揮者についてこう言う。
「指揮という仕事に憧れている善男善女の皆さんに、オチョクリのレッスンばかり書いてきたが、ぼくの指揮についての真意を大マジメに書く。
①指揮を習うことはできない
②指揮を教えることはできない
③指揮者には、なるヤツだけがなれる
④指揮者になれないヤツは、なれない
これが全てだ」(『指揮のおけいこ』1999年、文春文庫)
牧師も同じことが言えると思う。主に召された者は、どんなに苦しくても困難でも、伝道者でなくなるわけではなく、ますます伝道者になっていく。だから、今、もう一度原点に返って主の導きかどうか確認することだ。もし、主の召しではないと確認したら、誠実に伝道者を辞め、他の職業で主に仕えることが、自分自身にとっても、家族にとっても、教会にとっても幸いである。他方、主の召しであるなら、どんな苦しい状況であっても潰れはせず、逆に伝道者に成らされるから安心していればいい。
そして将来、牧師になろうとか、主の召しではないかと考えている若者は、決して安易に伝道者になってはならないのである。
(つづく)
ほそかわ・しょうり 1944年香川県生まれ。東京で浪人中、63年にキリスト者学生会(KGK)のクリスマスで信仰に導かれる。聖書神学舎卒後、72年から日本福音キリスト教会連合(JECA)浜田山キリスト教会、北栄キリスト教会、那珂湊(なかみなと)キリスト教会、緑が丘福音教会、糸井福音教会、日本長老教会辰口キリスト教会、パリ、ウィーン、ブリュッセル、各日本語教会で牧会。著書に『落ちこぼれ牧師、奮闘す!』(PHP出版)、『人生にビューティフル・ショット』『21世紀をになうキリスト者へ』(いのちのことば社)など。
【ジセダイの牧師と信徒への手紙】 第3章 現代的風潮を斬る 「主の教会」であることを忘れずに 細川勝利 2014年4月26日