すっぱり引退する
我々老人は自分より若い人が頼りなく見え、自分がいないと困るに違いないと思い込む。だいたい、こう思い始めたら霊的老化のしるしである。自分がいないと困るのは自分自身であって、教会や若い人にとって我々老人がいることで困るのである。
だから、「協力牧師」とか「顧問牧師」とかの名称をつけて働き人として残ることなく、きれいさっぱりと引退する必要がある。
今なお青臭い小生は、以上のことを何人もの尊敬する恩師、先輩、同輩に手紙や電話で、ある時は押しかけて行って訴えた。また、ある教会の役員会宛に書いて送ったこともある。冷静に考えれば冷や汗ものである。
それでも、このことは我々老人が覚悟すべきことだとの確信は変わらない。なぜなら我々老人が協力牧師などになり、後任牧師が2~3年で辞めてしまい、さらに一旦引退したはずの我々老人が返り咲くという、笑えない喜劇というか悲劇というか、どうにもやり切れないことがあちこちにあるからである。
遠く離れて住む
一般的に、老人になって新しい所に住むのは難しい。それは伝道者にとっても同じである。その理由は住環境以上に、新しい人間関係に対する不安や恐れがあり、それを築いていくことが億劫になるからである。だから、できるだけ同じ人間関係ででき上がった信頼関係に留まりたいのが人情である。
他方、現実的には、我々老人牧師で新しく居を構える備えのある者はほとんどない。一方、教会として引退牧師に引退後の住居を用意できるところも稀である。結局は、現役時代の住まいに居続けたり、引退した教会に通える範囲に住むことになる。
しかし、人間は霊的存在であると同時に物質的存在である。だから、現実的空間において近くに引退牧師がいる限り、教会員との霊的関係も近いままになる。それでは、教会員と後任牧師との霊的関係が築かれない。後任牧師と教会員の霊的関係のために、引退牧師は遠く離れて住まなければならない。
信徒離れのいい引退をする
医療関係者から「あの先生は患者離れが悪い」とか、「いい」とか聞く。我々老人牧師も引退する時「信徒離れのいい」引退をすることが大切だ。その教会を引退しても教会員を引き連れたり、後から誘ったりすることは慎まなければならない。
そこまでしなくても、信徒から相談されたり、後任牧師の説教や牧会に対する批判を聞かされると、内心「やっぱりオレがいないとダメだな。俺の時はよかったのに」と自己満足に酔う誘惑がいつもある。それは、我々老人はひがみっぽく、淋しがりやだからである。
前任教会の会員から相談があった時は、きっぱりと「小生はもうあなたの牧師ではない。○○牧師があなたの牧師だから彼に相談したり直接話すとよい」と促すことである。自己満足をくすぐる誘惑を拒否し、後任牧師と教会員の霊的関係を築くための信仰的品性と節度を持っていたいものである。
もちろん、これは我々老人牧師だけではできない。つまり「牧師離れのいい」信徒あってのことだ。ところが「牧師離れの悪い」のが日本人信徒の常であり、人情である。
だから、引退の準備として「引退後は私は皆さんの牧師ではないので、相談を持って来ないように。持って来ても受けつけない」と口を酸っぱくするほど語り続けなければならない。それでも「牧師離れがよくなる」とは限らない。これは至難の業である。
これは、結婚の時の「親離れ、子離れ」に類似していると思う。しっかり親離れし、結婚して初めて夫婦の信頼関係が築かれる。だから親はこの夫婦関係が祝されるよう願うならば、親自身が子離れする責任がある。これと同様に、我々老人牧師は、若い牧師と信徒の深い信頼関係が築かれるために、きっぱりと信徒離れをする責任があり務めがある。
(つづく)
ほそかわ・しょうり 1944年香川県生まれ。東京で浪人中、63年にキリスト者学生会(KGK)のクリスマスで信仰に導かれる。聖書神学舎卒後、72年から日本福音キリスト教会連合(JECA)浜田山キリスト教会、北栄キリスト教会、那珂湊(なかみなと)キリスト教会、緑が丘福音教会、糸井福音教会、日本長老教会辰口キリスト教会、パリ、ウィーン、ブリュッセル、各日本語教会で牧会。著書に『落ちこぼれ牧師、奮闘す!』(PHP出版)、『人生にビューティフル・ショット』『21世紀をになうキリスト者へ』(いのちのことば社)など。
【ジセダイの牧師と信徒への手紙】 第1章 潔く引退する 大切な器たちが潰れないために 細川勝利 2014年4月12日 – キリスト新聞社ホームページ (kirishin.com)