『八色ヨハネ先生』著者を囲んで(後編) 三宅威仁さん「遺書のつもりで書いた」

 同志社大学神学部の現役教員である三宅威仁氏が、架空の神学部教授を主人公に小説『八色ヨハネ先生』を書き、朝日新聞・文芸社による文学賞「Reライフ文学賞」長編部門最優秀賞を受賞した。同書をめぐり、著者の三宅氏とその教え子たちが語らった座談会の後半をお届けする。

『八色ヨハネ先生』著者を囲んで(前編) 「神義論」を小説で表現 同志社大学神学部現役教員の快挙 2023年11月11日

「聖書はすべて私個人に語りかけている」
家族を失った後にどう生きたかが大事

田中 神学部1年の田中宗彰です。興味を持っているのはイスラーム以前のアラブについてです。実は私まだこの小説を買えていないんです。どこに行っても売り切れていて……。でも私も小説を書いていて、小説家になりたいと思っているので、今日は参加させていただきました。

三宅 誰かに見せたり投稿したりしているんですか?

田中 1回送ったんですが、大きすぎるところでダメでした。今もサークルとかで書き続けていて、今日は何か得られたらと思っています。

澤田 前期課程2年の澤田果歩です。声がかれてしまって……。写真係をします。

金子 修士1年の金子裕史郎です。修論はR・オットーの『聖なるもの』について書きたいと思っています。三宅先生の授業のアシスタントをしています。反響はいかがですか?

三宅 よく分かりませんが、初版はほぼ完売したそうで、重版が決まったそうです。

金子 聞いたところによると、Amazonの売れ筋ランキングにランクインしたとか。

三宅 10月1日に朝日新聞に記事が出た直後、一時Amazonの文芸部門の売り上げでランキング1位が東野圭吾、2位京極夏彦、そして常に売れている『ハリー・ポッター』とかが入って、9位に『八色ヨハネ先生』が入っていました。記念にスクリーンショットを撮りました。一瞬でしたけどね。今は400位台。でもこれは、在庫がないからで、また刷ってくれたら上がるかもしれませんね。

 あとがきにも書かれているようにフィクションのはずなのに、小説の後半あたりからの「幻像」の描写を読んでいるうちに悲しい気持ちになっていくんです。こういったシーンをフィクションとして描き出す時のモチーフのようなものはありましたか?

三宅 元になったのは、私が実際に夢に見たものです。例えば、空中を漂っていたら突如ガラスの破片が虚空の中から現れてズブズブ刺さるとか。肉体がパカッと割れて分裂していくとか。私は30歳を超えた時に重い抑うつ症になって、ものすごい悪夢のようなものを見ました。その時の経験がベースになっていると思います。

佐々木 ご自身の経験以外からの影響はありますか? 例えば、これまで読んできた別の文学作品とか。

三宅 トルストイですね。イワン・イリイチが死んだ、というところから始まる『イワン・イリイチの死』。最後の方では、教会の説教をそのまま載せていますが、これはいわゆるトルストイ主義のような感じです。もし自分を愛して自分のためだけに生きたらすべて虚無に飲み込まれるが、隣人を愛したら永遠の命を得るということを書いたんです。

他にもさまざまな影響が現れていて、最後の最後に永遠に朽ち果てることのない瑞々しいグレープフルーツの皮が出てきますが、これはヘミングウェイの『キリマンジャロの雪』から。キリマンジャロの山頂近くにカラカラに干からびた豹の死骸が横たわっている。なぜ豹がそれほど高い所に登っていったのかは誰も知らない。高みを目指して頂上付近でカラカラに干からびてしまった豹の死骸と、いつまでも瑞々しいグレープフルーツの皮とはまったく対照的なのです。

田中 自分が経験していないことを文章でリアルに書くコツのようなものがあれば教えてください。

三宅 全体は経験していなくても、実生活で経験しているような要素が少しずつ入っているからリアリティがあるのだと思います。ステンドグラスの描写がありますが、これは、同志社の礼拝堂で体験したことです。そういうことを随所に放り込むと、なんとなくリアリティが出る。あとは、長く生きていますからね。あれこれ見聞きしたことを取り入れています。先生のお父さんが徴兵検査の時にたまたまひどい風邪をひいていて、というのは三島由紀夫の話です。お父さんが中国大陸から栄養失調で引き上げてきてというのは、私の父親です。子どもには絶対に戦争経験を話さなかったけれど、他の人に、自分は帳付けだったから最前線で敵と戦ったことはほとんどなかったと言っているのを聞いたことはあります。弁解かもしれませんが。

金子 私が一番好きなのは、娘さんがレコードをかけて家族3人で寄り添って聴く場面です。ああいう幸福な家族の場面というのは、やはり頭の中だけで考えて書いたのですか?

三宅 自分に家族がいないので、まったくの想像です。書くのが難しかったのは妻と娘が死んでいく箇所で、初めは病気や事故、災害で亡くなるという設定も考えたのですが、どれも陳腐で逆にリアリティがなくなってしまう。だからいっそのこと神隠しみたいにしました。

でも、物語の都合で女性が死んでいくというのは典型的な男性文学ですね。村上春樹の『ノルウェイの森』も、あるいはヨブ記もそうですよね。ヨブの子どもたちは殺されるためだけに物語に登場する。でも、家族も財産も失った後にヨブがどう生きたかということがヨブ記のメインテーマなわけです。それと同じで、妻と娘が都合よく死んでしまうことは気になるかもしれませんが、その後に八色先生がどうしたかということがメインです。私の能力では、これ以上どうにも処理できなかったですね。

司会 イエスの声が聞こえるという箇所は実体験に基づいているんですか?

三宅 ザアカイの箇所を読んでいて、ある時、「三宅威仁、降りてきなさい、あなたの家に泊まるから」という意味なのだとパッと思えた時があるんですね。つまり、聖書というのはすべて私個人に語りかけているのだということが分かった時があるんです。

西村 この話は基本的に「私」という人物が八色先生から聞いた話を書いているわけですが、ところどころにイタリック体で「ヨハネ先生から直接話を聞いている時の私」が登場する。わざわざこんな書き方をしたのはなぜですか?

三宅 主人公と語り手の両方に距離を取るように書いてあるんです。私がキリスト者になったのは30歳を超えてからで、まさにうつになった時です。ところが、この八色先生は子どものころからキリスト者なんです。新聞社の方からは、「主人公を自分と同じ設定にしなかったんですか?」と質問されました。同じにするとベッタリ私と同じになってしまうから、そうしなかったんです。書き手は主人公と距離を取る必要があります。これは他の部分にも言えます。例えば、神の声が聞こえたということをそのまま書いたら、キリスト者ではない日本人の99%は「お前が勝手にそう思い込んでいるだけだろ」という感想を持つわけです。それを「私」という聞き手が受け止めて承認します。つまり、読者の皆さんは主人公と一体化してもらわなくて結構ですよというための記述です。

西村 「私」という人物は誰に向かって語り、書いているんでしょうか?

三宅 それは難しい質問ですね。一つは自分に向かってでしょうね。最初に八色先生は11月1日に亡くなったと書いていますが、私の誕生日なんです。つまり、私は遺書のつもりで書いているんです。ボトルに紙を入れて海に放り込んでいるような感じですかね。誰か拾って読んでくれたら嬉しいなという感じ。

大阿久 受賞から出版までの間に、書き換えたところとかはあるのですか?

三宅 書き足したところはあります。例えば、シカゴ大学に留学したという記述、もともとはそれだけだったけれど、出版にあたって奨学金の描写を加えました。まだ1ドル360円の時代に町工場の息子がアメリカに留学するというのは金の出処が不自然ですから。

それから、応募した時の題は『八色ヨハネ先生の思い出』だったんです。どう思います? 悪くないでしょ? でも、授賞式の時に内館先生から「『思い出』はやめなさい。小学生の夏休みの宿題みたいだから」と、直接言われました。大河ドラマの脚本も書いている方ですからね。

 死に関してですが、小説の中で自殺についても言及されていますね。自殺というと、授業でも学んだE・デュルケムの『自殺論』を思い浮かべました。八色先生の状況をデュルケムの類型に当てはめるならば、社会からの疎外による「自己本位的自殺」に当たると思いました。

三宅 先生には、妻と娘以外につながっていた人がいなかったわけですからね。唯一いたとすればイエスです。しかし、イエスも12年間沈黙していたわけです。他の人とのつながりの中で癒やされるという物語は、私には書けなかったですね。例えば、教会に行って自殺を思いとどまったとか。そうならなかったのは、私自身があまりにも人と切り離された単独者としての人生を歩んできたからでしょうね。

 八色先生はキリスト者だけれども教会に通っているシーンはないですね。

三宅 私みたいですね。おそらく私のことを少しでも知っている人は、私のことを似非クリスチャンだと思っていたと思うんです。でも今回、私の信仰はこれですと見せられるものができて嬉しいですね。

佐々木 小説の最後の方に、苦しみの理由は「他の人から教えてもらってそれで片が付くといった類いの問いではありません。私たち一人ひとりが悩み苦しみながら自分の人生を懸けて答えを求めなければならないような問いです」(140頁)と書かれていました。私はここが一番好きだったのですが、既成の教会にいる人たちは、誰かが答えを与えてくれるのを口を開けて待っている場合が多いと感じます。

三宅 教会は高齢者が相互の安否を気遣う老人クラブのような場所になっているのではないかと小説には書きました。

金子 先生は「遺書」と言いましたが、やはり自伝的小説というのも間違っていないような気がするんです。西田幾多郎が宗教とは心霊上の事実であると言っていますが、先生の心の中の事実がこの本にまとめられているのかなと思うんです。とすると、先生はこの後、大学を辞めてしまうのかなとか。普通、自伝的小説ってすでに自分の身に起こったことを書きますが、先生は未来の自分の身に起こることを書いたんじゃないかと。

三宅 出版社が作った帯文が当初、「なぜ孤独死を遂げたのか?」となっていて、それは違うと言ったんです。最後まで読んでもらったら、ある種の救いを読み取ることができると思います。八色先生の死は確かに「孤独死」ですが、それは今の世間でイメージされるような悲痛なものでは決してないと思います。大事なのは、「どのように生き、どのように死んだのか」というところですね。

司会 ご参加いただいた皆さん、ありがとうございました。

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