Q.キリスト者同士で結婚したのですが、お互いの教派が異なり、今は別々の教会に通っています。このままで問題ないでしょうか?(30代・男性)
私は過去に、同じ教会の信徒同士でないと結婚できないという規律を持った一教派の信徒さんたちの相談に応じたことがありました。その教会名は控えますが、一つの問題が発生していたのです。それは、「この教会のみが唯一正しい教会」という規律が信徒さんたちの結婚にまで拘束力を持っていたことでした(この教派は、2002年にこれまでの方針が誤っていたと方向転換しつつあります)。
これは非常に極端な例です。この極端な例から回答をはじめたのは、もし同じ教派教会でないと「決していい状態だとは思わない」という質問であったからです。教会生活を同じ教会で夫婦が共にし、子どもたちへ信仰の継承をしてクリスチャンホームを築いてゆくことはすばらしいことです。互いに理解し合うために、です。
しかし、互いに理解し合うためであれば、「別々の教派教会に通っている」状態で、これまでそれぞれの教派教会で育まれてきた信仰を互いに尊重し理解することも、すばらしいことではないかと思います。実際、私の知っている方にも、夫婦の所属する教派教会が異なる方もおられます。夫婦(家族)が一緒に互いの教会にしばしば出席していると聞きます。互いに尊重し合い理解し合うこと、結婚の誓約でも「私は、あなたを妻(夫)とし、生涯あなたを愛し、尊び、誠実をつくします」と誓い合いました。
地上の教籍は教派教会にありますが、天には教派は存在しません。「しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから、救い主である主イエス・キリストが来られるのを、私たちは待ち望んでいます」(フィリピの信徒への手紙3章20節)。
互いに理解し合い尊重し合うこと、これは教派教会が同じでも異なっていても、夫婦生活の基本です。教派教会が互いに異なっていても、理解し合い尊重し合っておられるなら、互いの信仰のうちに、幸せな家庭を築くことができるのではないでしょうか。
「家」を家族関係の基礎と考えていた旧民法では、婚姻を個人の問題というよりは家という社会の問題と捉え、妻は婚姻により夫の家に入る(例外的に、入夫・婿養子の場合は妻の家に入る)とされ(788条)、戸主と家族は家の氏を称するものと規定されていました(746条)。
現行民法は、家制度を廃止し、個人主義を原則としてできたのですが、戸籍や氏という制度を残したままにしたため、中途半端な感を否めません。現行民法の「婚姻した夫婦は夫または妻の氏を称する」(750条)という「氏」は、個人の氏であって、家の氏ではないのですが、誤解も少なくありません。
戸籍法も、同じように、家制度の戸籍から個人主義の戸籍に変わったのですが、戦後60年を経た現在でも誤解している人が少なくありません。戸籍は、夫婦が婚姻することによって新しく編成されるものなので、家の戸籍ではありませんし、親や祖先の戸籍とは別の戸籍なのです。最近ではマスコミが「入籍」という表現を盛んに使用するようになって、誤解が広がっていますが、決して婚姻によって家の戸籍に入るのではないのです。
戸籍は男性優位の制度ではないのですが、戸籍の筆頭者に夫が多いのも事実です。この「筆頭者」というのは戸籍の見出しにすぎず、何の特権も何の権限もありませんから、旧民法の戸主とはまったく違います。
現代社会では婚姻を国家の制度の中で規定していますから国によって異なっていて、家制度の国もあれば夫婦別氏の国もあり、夫婦創氏の国もあります。一概に是非を論じることはできませんし、神学的または教会的に特定すべきことでもないように思います。
氏をどう考えるかは難問ですが、実利的に捉えるのも一法かと思います。改氏によって社会的に不利にならい方が改氏するとか、ビジネスネームとプライベートネームを使い分けるとかという方法もあるように思います。伝統的な教会の指導は各国の法律制度の中での婚姻を勧めてきましたし、個人に大きなリスクが伴う事実婚を勧めることは困難です。
今まで、教会では、氏や戸籍制度について厳密には考えてきませんでしたが、それで悩んでいる信徒がいる以上、神学的・教会的にきちんと検討・整理し、意見を交え、必要なら制度改革を求めていくことも必要でしょう。
ひらおか・まさゆき 1950年、福岡県生まれ。日本ルーテル神学大学神学部(現ルーテル学院大学)、日本ルーテル神学校卒業。83年より日本福音ルーテル教会牧師。85年から統一協会、94年にはオウム真理教信者の脱会支援に着手するなど、長くカルト問題に取り組み、カウンセリング活動を続けた。共著書に『マインドコントロールからの解放』(三一書房)、『啓示と宗教』(サンパウロ)など。2009年、58歳で逝去。