Q.近くに教会がないため、多額の交通費をかけて遠くまで通っています。その分献金を減額してもかまいませんか?(40代・女性)
こうした質問をされること自体に、あなたの性格の真面目さがうかがえます。多くの場合、適当になりがちです。あなたの通う教会では献金、特に「十分の一献金」のことをどう教えていますか? 月定献金はしていても、金額は本人の自主性に任せているでしょうか。それによって献金に対する責任感も意識も変わってきます。
献金が神さまへの感謝であるとともに、義務・責任であることは多くの方が承知しています。献金は自分のお金を捧げることではなく、神への返金を意味します。
旧約聖書では十分の一献金を教えているが、新約聖書では強調されていないとする意見があります。そしてこのことが、教会での献金に対する姿勢がまちまちになる理由です。もし、十分の一献金に対して自由であれば、その人が自由に決めればよいことです。
しかし十分の一献金が基本であれば、まず神さまに捧げて、残った十分の九で生活できるように、工夫し努力する必要があります。そして、どうしても足りないなら天の窓を開いて祝してくださる、神さまの助けを求めればよいのです。
ただ、この原則が実行しにくい人がおられることは承知しています。たとえば、専業主婦や失業中の方や病気の方や借金のため生活の困難を抱える方などにまで、一律には求められません。お金はわたしたちの命の別の形です。時間という命を捧げて給与を得るからです。だからこそ献金には大きな意味があるのです。
人への借金には気を遣う人でも、神さまへの捧げものをおろそかにしては、結局滞納となり盗みともなります。献金の問題はおろそかにはできないことですし、献金にルーズになってしまうなら、奉仕や礼拝にも影響が出てきます。あなたは献金をどんな気持ちでしていますか。この問いかけを自分に問う中で、答えが見つかると思います。
*本稿は既刊シリーズには未収録のQ&Aです。
かつもと・まさみ 1950年熊本県生まれ。聖契神学校卒業後、立正大学仏教学部(日蓮宗)を卒業。あわせて僧階課程を修了。その後、仏教大学で仏教学(浄土宗)を専攻。神道や民俗宗教の学びの必要を覚えて、神道宗教学会に加入。郷里熊本で牧会の後、1990年から千葉県流山市で開拓伝道を開始した。後に日本聖契キリスト教団に加入し、聖契神学校講師(比較宗教·日本教会史)を担当。著書に『日本人の生活習慣とキリスト教』『日本の宗教行事にどう対応するか』(いずれもいのちのことば社)など。