今夏の休暇は、妻の実家である山形県の酒田市に滞在した。地方都市は少子高齢化が著しく、この町も人口は減少し続けている。当然のことながら教会への影響も大である。酒田市の隣町である鶴岡市には、妻が洗礼を授かった教会があった。過去形で書くのは、今年の1月に聖堂聖別解除が行われ、100キロ先の山形市内の教会と合併となったからである。同じく山形市から90キロ離れた新庄市の教会も聖堂聖別解除が行われ、合併となった。鶴岡で健在な信徒のために、山形市から司祭が牧会訪問を行い、聖餐を執行している。私も山形市の司祭の許可を得、別日にその信徒宅に家族と共に訪ねた。その信徒は妻の教母だからである。
10年ほど前、鵜飼秀徳が『寺院消滅 失われる「地方」と「宗教」』(日経BP社、2015年)を著したのは記憶に新しい。当時、高知市の教会に勤めていた私は、この本を教会に集まった人々と読んだことを覚えている。県庁所在地である高知市は、県地域全体からの人口の流入があり、県内人口占有率が45%を超えている。そのため高知市に限っては人口が安定しているかのように見えるが、しかし若者は大阪や東京へ転出していた。
そこで高知市の教会では、高知県内に残る30代、40代を主なターゲットに絞って、毎週木曜日に教会でカフェ(夜はお酒を交えての会)を開いた。その年代層はこれから転出する可能性が低いからだ。その取り組みはキリスト新聞社が発刊していた『Ministry(ミニストリー)』第25号(2015年5月)の特集「過疎と教会 今そこにあるキボウ」に詳しく取り上げられている。私が転勤した後もカフェの取り組みは継続されており、そこから受洗者が与えられたという良き知らせを耳にしている。とはいえ、信仰の先達者たちは高齢化を迎え、一人、また一人と天の国へと帰られている。
先日、大阪の豊中市の教会合併の話を聞く機会を得た。豊中市には聖公会の教会が三つあり、現在ではそのうちの二つが合併したという。もともとこの三つの教会は、同一の司祭によって司牧されていた。三つの教会すべてに定住司祭を置くことは難しかったからである。そこで司祭の負担を軽減し、あるべき教会の姿を取り戻すため合併が行われた。一教会への信徒の集中により、生き生きとした教会生活が望まれていたためだ。教会ごとの信徒数の格差があるため、対等な合併であるということに注意を払ったという。単なる合併ではなく「新しい教会」を創ることがビジョンとして掲げられた。新教会の理念は、「すべては、主から受けて、主にささげるのです」(歴代誌上29章14節)であった。この聖句は聖公会の聖餐式文で、奉献の際に唱えられる文言である。
聖餐式のたびに、すべての人が主の御机のもとへ集められる。献金とともに、日々の働きの実りであるパンとぶどう酒が献げられ、私たちを養う聖餐が与えられる。そして一人ひとりが派遣の言葉とともに日常生活の中に送り出されていく。信仰の継承もこれと同じである。誰かの日常生活の中で育まれた信仰は、また誰かの心に明かりを灯す。たとえある地域に教会が失われようとも、確かにその火はどこか別の場所で輝き続け、他者の心を温かく照らすのだ。
地方で紡がれてきた信仰を語り継ぐこと。誰かの心に明かりを灯すこと。「新しい交わり」を創り出すこと。神の創造の業に寄与していくこと。これが、人口集中が進む都市部での教会の使命の一つなのではないだろうか。
與賀田光嗣(神戸国際大学付属高等学校チャプレン)
よかた・こうし 1980年北海道生まれ。関西学院大学神学部、ウイリアムス神学館卒業。2010年司祭按手。神戸聖ミカエル教会、高知聖パウロ教会、立教英国学院チャプレンを経て現職。妻と1男1女の4人家族。