日本のイスラームの歴史は短い。ムスリムの集団定住が国内で確認されたのは20世紀初頭の頃とされる。
その短い歴史の中で、日本社会におけるイスラームやムスリムの存在感が高まるブームのようなものが、幾度かあった。
ムスリムが多い中国北部や東南アジア地域における戦前戦中の日本政府の外交政策や、アラブ産油国の経済制裁によって起こった石油ショックなどがそうである。これらの時期にはイスラームが官民レベルで脚光を浴び、研究が進められ、アラブ世界に留学する日本人が数多く出現した。
昨今、日本でも市民権を獲得してきている「ハラール」への関心も、前述のブームほどではないにせよ、日本に居住し、訪問するムスリムにとって、非常に大きな変化をもたらした。元々、ムスリムが主流を占める国々が日本の輸出業者に対し、その製品に対してハラール認証を要求することはあった。しかしムスリム訪日客向けの「ハラール」アピールが顕著になったのは、インバウンドビジネスにおけるムスリムの存在感が増したここ十数年のことである。
ムスリムが多いASEAN諸国の経済発展、観光ビザ規制緩和、格安航空券の普及、円安、日本文化への関心の高まりなどさまざまな要因が重なり、ムスリム訪日客は激増した。2010年には約8万人だったインドネシア人訪日客数は、2018年には約40万人に増え、実に400%近い増加率を示している(一般社団法人ジャパンショッピングツーリズム協会調べ)。コロナ禍収束後は訪日客の足も戻り、ベールを着用した外国人ムスリム女性を街角や観光地で見かけることも日常的な光景になってきた。
ムスリム訪日客にどうしたら快適に楽しんでもらえるか。どうしたら彼らをもっと誘致できるか。観光業界や旅行業界は、その鍵が食事や礼拝スペースの問題にあると考えた。こうして、「ハラール」「ムスリムフレンドリー」対応への取り組みが始まった。違いをざっくり説明すると、後者は前者よりも規格が緩い。イスラームの規格に合う飲食サービスを提供する店のみならず、宿泊施設、商業施設、観光施設、主要空港や鉄道駅などにも礼拝スペースが設置されるようになった。
在日ムスリムらはおおむね、この状況を好意的に捉えている。日本社会において、安心して外食できる飲食店の数と種類、礼拝所の数が飛躍的に増加したためだ。中華、焼肉、ハンバーグ、ラーメン、寿司、もつ鍋、串カツ、お好み焼き……従来は手が出せなかった料理を、外食で楽しめる時代がやってきたのである。ユニークなところでは、カラオケチェーン「まねきねこ」やカレーハウスCoCo壱番屋まで、一部店舗においてハラール対応を始めたということもあった(後者は現在ハラール対応停止)。
他方、このような動きは、一部信徒から不信感を持たれることもある。宗教の商売化や、ハラールに関する偏った理解、本来は柔軟性のある食基準を規格化してしまうことの問題性などについて、危惧する声も存在する。
さいーど・さとう・ゆういち 福島県生まれ。イスラーム改宗後、フランス、モーリタニア、サウジアラビアなどでアラビア語・イスラーム留学。サウジアラビア・イマーム大卒。複数のモスクでイマームや信徒の教化活動を行う一方、大学機関などでアラビア語講師も務める。サウジアラビア王国ファハド国王マディーナ・クルアーン印刷局クルアーン邦訳担当。一般社団法人ムスリム世界連盟日本支部文化アドバイザー。