前回(2023年1月21日付本欄)に続き、台湾が日本により植民地化されていた時代の在日台湾人キリスト者について紹介したい。
台湾キリスト教史を長年研究してきた筆者が見るところでは、台湾の初期のキリスト者は、社会からは「人間の道徳を損なう、西洋人に依存する邪教徒」と見なされ、当局からは「無頼の徒」と見なされていた。しかし、キリスト教に改宗した後、彼らは読み書きを学び、教会のリソースを通じて識字率を高め、西洋式の教育を受けるようになった。そのようにして、社会の底辺層にいた信者たちは徐々に自分たちの社会的・経済的地位を改善していき、結婚を通じてクリスチャン家族を形成し、絆を強め、互いに支え合いながら、次第にクリスチャン・コミュニティを形成していった。
日本による植民地時代になると、教会とキリスト教学校で教育を受けたキリスト者2世、3世が、やがて中流・上流階級へと社会的地位を上昇させ、垂直的な社会的流動性を生み出した。2世、3世の台湾人キリスト者の中で、日本への留学生となった人たちが少なくなかった。植民地時代に日本に渡ったこれらの台湾人キリスト者の留学生が日本で学ぶことができたのは、在日台湾人クリスチャン・ネットワークがあったからである。彼らの中には、教会で教育を受けた後に日本の神学校に通い、台湾に戻って宣教した者もいた。また、一族の誰かが日本留学を始め、後の世代が日本へ留学するのが恒例になった家庭や、教会員の家族が日本に滞在・留学したことで、日本留学のパイプができた者もいた。
こうした在日台湾人キリスト者の留学生たちは、日本留学の経験や思いを共有することで親密なネットワークを形成するとともに、現地の日本人、特に日本人キリスト者とも交流し、日台クリスチャン・ネットワークも形成していた。彼らの専門領域は各業種に及び、卒業後には台湾に戻る者もいれば、日本に残り事業を展開する者もいた。このような日本滞在・留学経験に基づく台湾人クリスチャン・ネットワークは、近代の日台関係や台湾の経済、医療、キリスト教に大きな影響を与えてきた。
1910年9月25日、東京に留学していた台湾人キリスト者たちが「東京高砂基督青年会」(訳注=「高砂」は特に植民地時代に使用されていた台湾の呼称)を設立し、毎週日曜日午後2時から植村正久牧師が牧会する富士見町教会を間借りして礼拝が行われた。当時の会員数は約26人で、実際の礼拝出席者は少ない時で6、7人、多い時で15、16人であり、「特別会員」として東京在住ではない賛助会員もいた。
1910年から25年にかけて、台湾人キリスト者の日本留学生が増加し、特に台湾南部の教会の出身者が比較的多かった。1925年ごろ、呉昌盛(青山学院神学生)、劉振芳(明治学院神学生)、顔春芳(明治大学法学部生)の3人が、東京在住の台湾人キリスト者の学生を集め、毎週日曜日の夜7時に東中野にある顔春芳の家で聖書研究会や賛美集会を開き、顔春芳が司会をし、劉振芳と呉昌盛が台湾語で説教し、礼拝を導いた。
1927年秋、明治学院神学部から間借りした教室に集会場所を移し、礼拝時間は毎週日曜日の午後に定め、正式に「東京台湾基督教青年会」と命名した。1930年ごろ、日本に留学する台湾人学生の増加に伴い、東京台湾基督教青年会の活動は活発になり、当時は平均70~80人が集会に参加し、日本神学校(旧・明治学院神学部校舎)の2階の教室を間借りして礼拝が行われた。1934年、同会は郭馬西牧師を宗教部長として東京に招聘すると、礼拝出席者が急増し、その2年後には信徒は100人に達した。そのため、1937年11月には柏木教会(日本基督教会)の礼拝堂を間借りすることになった。
現在、荻窪にある東京台湾教会は、1975年に教会員が資金を集め、土地を購入して建てたものだが、その歴史は1925年に東中野で開かれた家庭集会にまでさかのぼると、 間もなく100周年を迎えることになる。現在でも2世、3世の老信徒もいるが、戦後のさまざまな時期に関東に移住した台湾人も増えている。(原文:中国語、翻訳=松谷曄介)
王 政文
おう・せいぶん 国立台湾師範大学歴史学博士、東海大学歴史学部副教授・同学部主任。専門は台湾史、台湾キリスト教史。特にキリスト者の社会ネットワーク・改宗プロセス・アイデンティティーの相関関係を研究。著書に『天路歴程:清末台湾基督教徒的改宗与認同』(2019年)など。