キリスト教界で初めて統一協会(世界基督教統一神霊協会)に対する公的な立場表明がなされたのは、今から約50年前。記事中ではその背景として、「同教会についての問い合わせがキリスト教会内外から相次ぎ、NCCとして見解を明らかにする必要に迫られたため今回の発表となった」と記されている。なお、この段階ではまだ一貫して「統一協会」と表記する前の段階だったことを考慮し、当時の原文通り「統一教会」の表記を使用している。
九月十八日開催のNCC(日本キリスト教協議会)第九回常議員会は「統一教会」(世界基督教統一神霊協会)について見解を明らかにした。統一協会に対する批判がそのまま既成の教会に向けられたこと『原理講論』の聖書解釈と伝統的な教会の聖書解釈との間に大きな開きがあることなどから、同教会についての問い合わせがキリスト教会内外から相次ぎ、NCCとして見解を明らかにする必要に迫られたため今回の発表となったもの。今年の三月一二日に開催された第八回常議員会で見解を発表することが決議され、信仰職制委員会に諮問さていたが、その後、常務常議員会の検討を経て今回の発表となった。見解は、信仰職制委員会に諮問された性格上、教理上の見解の相違点だけにしぼられており、社会的、政治的な点は中心的には取り上げられていない。韓国の指導者協議会が五月に発表した統一協会の批判の声明が統一協会はキリスト教ではないといっているのに対し、日本キリスト教協議会の見解では、具体的に『原理講論』のどの部分が教理的に見解が異なるかが示されている。また自分たちが正統という主張の仕方ではなく見解の相いを明確にすることで、どちらを自分の立場とするかは読んだ人にゆだねられているといえる。
原理講論認めず
見解キリストの救いの協調
三項目にはエキュメニカルな対話の可能性があげられているが、この点に関して信仰職制委員会のメンバーの熊沢義宜氏(東京神学大学教授)は「組織拡大に利用される危険性もあるが、そういうことがおこらないよう配慮していくことが必要だ」と語っており、また「キリスト教会の伝道集会や講演会などに原理の青年たちが来るが話を聞くというより仲間を引っぱり込もうとすることは対話にならない。種々の集会に、費用はむこうもちで招待をしてくれるが、対話の基盤はそれではできない。教会の経験を出し合いながら、一つ一つをていねいに取り上げながら対話の可能性をもたねばならない。このエキュメニカルな対話ということは、日本キリスト教会協議会が閉鎖的団体という誤解を生じさせないためと、もう一つは、統一協会がこの世をサタンの支配、つまり共産圏諸国と、神の支配、つまり自由主義諸国との二つに分けて、共産主義諸国を敵対視するという見解に対する相違を明らかにしたという意味がある」という。
統一協会に関する見解の全文は別項の通り。
【統一協会に関する見解】
日本キリスト協議会は近年「エキュメニカル」、「世界教会」、「キリスト教会」など本協議会および加盟教団の諸活動とまぎらわしい名称のもとに活動をしている「統一協会」(世界基督教統一神霊協会)について、加盟教団ならびに教会の内外から多くの質問を受け、見解を問われて参りました。一九七五年三月十二日開催の第八回常議委員会は、これらの要請に応えて、見解を発表すべく決議しました。その後、信仰職制委員会、常任常議員会等の検討を経て、本日の第九回常議員会は以下の通り見解を明らかにいたします。
統一協会(世界基督教統一神霊協会)の主張に対して、私たちは以下のような見解を明らかにいたします。(*1)
I 私たちの基本的な立場
日本キリスト教協議会規約にのべられた<綱領>(第一章第三条)で明らかにされているように「聖書に基づき、イエス・キリストを神とし、救い主として告白」し「父と子、聖霊なる神の召しにともにこたえることをめざす」のが、私たちの基本的な立場です。
II 統一協会の教理的な主張と私たちの立場との根本的な相違点
1 統一原理がいわゆる<新しい教理>であるというその主張に対して(*2)私たちは聖書において証しせられたイエス・キリストの真理こそ古くて新しい唯一の真理であることを信じています
2 従って私たちは統一協会が「私達は旧、新約聖書を教典とする(『統一教会の信条』)」と主張しながら、実際には『原理講論』を聖書以上に重んじ、原理講論がその宗教活動のきわめて本質的な部分を形づくっていることをみるときに、統一教会が<聖書に基づく>ものでなくて、<原理講論に基づく>団体であり、聖書をとりあげる場合にも、原理講論に基づいて聖書を問題にしているといわなければなりません。
3 このようないわゆる<新しい真理>が与えられる時代は<旧約時代><新約時代>に続く<成約時代>の到来を意味するとして「イエスが再臨されて、新約のみ言が成就し」「新しいみ言(すなわち新しい真理)によって」「イエスと聖霊による新約のみ言が光を失うようになる」(*3)という主張も同じ理由によって私たちの立場とは全く相違するものです。
私たちは<旧新約聖書>のほかに、いわば<成約聖書>(つまり『原理講論』)といったものの存在を認めないし、また認める必要もないのです。救いに関する必要な全ての事柄が、旧・新約聖書に証されていると信ずるからです。
4 私たちはその他『原理講論』にみられる統一教会の神論、堕落論、救済論、復活論、キリスト論、再臨論、サタン論など多くの点に関してなお根本的な相違があることを認めざるをえませんが、以上の諸点をあげるだけで、統一教会と私たちとの決定的な違いは明らかであろうと思われます。私たちは統一原理のような<原理>によって人類が救済されるとは思いません。そうではなくて、人となり給うた神の子、その十字架と復活のみ業をとおして救いの業を完成されたイエス・キリストをとおして救われることを信じるがゆえにそれ以外のなに人に従うことも私たちの信仰の良心が許さないところです。
III エキュメニカルな交わりの可能性
1 この世界の中に存在する一切のものが、神の支配のもとにあり決してサタンの支配のもとにあるのではないということを信じる限り、この世界は<神の世界>であり、この基盤の上に立って、とといどのような見解の相違をもつものであってもエキュメニカルな対話の可能性を持つことが認められなくてはならないでしょう。統一教会と私たちの場合でも同様です。
2 ただし、そこにはすでにあげられた教理的な立場の相違のほかに、統一教会の受けているさまざまな社会批判の問題や、さらに国際勝共運動などのかかわりにおいて考えられる種々な背景について十分慎重な検討がなされなくてはならないでしょう。
*1 この際、統一教会の教理的な主張の主要な典拠としたものは『原理講論』(著者「世界基督教統一神霊協会」、発行所「光言社」昭和42年10月2日発行)であり、その主張の全てについて網羅的に取り扱うのではなくて、とくに重要だと思われる諸点についてとりあげることにしました。
*2 『原理講論』P30ff168ff、596fなど参照、以下とくに明示しない場合にはページは全て『原理講論』のページを示す。
*3 引用は全てP155、他にP276参照