日本では、牧師不足が喫緊の課題として眼前に現れている。しかし、中国大陸の家庭教会も類似した状況にあると聞く。ある地方都市では、無数に存在する家庭教会を導く働き手が不足しており、その状況は我々の想像以上に深刻だ。
「信徒たちは信仰面での助けと指導が必要なのに、聖書の御言葉をもって教会を正しく導くことのできる人がいない」
そう嘆くのは、この地方都市で教会を導く「同工」(教会の執事のような存在)の1人である姉妹だ。祈っても祈っても牧師が与えられない。教会の信徒を養うことのできる、神学教育を受けた人が与えられない。収穫は多いのに、働き手が少ない。どうしたものか。切実な嘆きの声がここ数年間途絶えることなく投げかけられている。
この姉妹は言う。この状況が常態化していくと、聖書の読み方すら変わってしまう。彼女の説明によると、皆、恣意的に聖書を読み、自分にとって都合のよい読み方をしてしまっているというのだ。礼拝には喜んで参加する。賛美歌もワーシップソングも好んで歌う。祈りも熱く主に捧げる。交わりも深められていて、一見、何の問題もなさそうに見える。しかし、実は問題が山積みされているというのだ。
彼女の懸念は、異端の勃興において反映されていると言えるのかもしれない。教会で正しい聖書理解と信仰理解が教示されないため、各々が解釈し、自らの見解が正しいと主張し始めてしまう。すると、教会の一致を保持することが困難となり、分裂が起きる。そこに異端的な団体が組織的に入り込むという構造が顕在するというのだ。
コロナ禍で生活面において甚大な影響を受けたことにより、家庭教会もさまざまな困難に直面していることは間違いない。地方都市ならなおさらである。それが牧師不足として可視化されているのだ。
礼拝には大勢集まる。それだけの必要が人々と社会にはあるのだ。しかし、その民を導くことのできる、聖書知識と霊性を備えた働き手がどうしても足りない。もっと神学教育も提供できないのか。焦りとフラストレーションを吐露するこの姉妹の姿が痛々しい。
フィリップ・ジェンキンス(アメリカのベイラー大学の宗教学教授)などが指摘したキリスト教中心地のシフト現象から、もうかれこれ10年以上が経つ。今までの欧米中心型のキリスト教からグローバルサウスと呼ばれる国・地域へとキリスト教徒人口の比重がシフトしていると主張される。その内の一つが中国なのだ。中国の教会がグローバル社会に与える影響力というのは、今後さらに飛躍的に伸びると推測される。人数的には確かにそうなのかもしれない。だが、現地ではその群れを養い導く者が欠如しているのが実態だ。これからどこに向かっていこうとするのか、方向性も見えないまま、各々が信仰生活を送っている。「いつになっても真理を認識することができない」、まさにテモテへの手紙二の3章で記されているような状況と言ったら言い過ぎだろうか。
若年層の人たちも多く教会に集まっているのだが、結婚観や人生観についての聖書からの手ほどきがないまま、社会に押し流されていく。せっかく福音の種がまかれようとも、実りを得ることがあまりにも少ないのである。
「これからこのまま時が経っていったとしたら、次世代の教会はどうなっているのか心配で仕方ない。もう祈るしかない。働き手を送ってくださいと主に祈るしかない」「可能ならば、神学教師も与えられないか。大都市のようにはいかないが、地方都市にいる私たちにだって必要はあるのだ」
まさにこれが、中国からの切実なる嘆願の声である。マケドニア人の叫び声のようだ。誰がその声に応答するのだろうか。
遠山 潔
とおやま・きよし 1974年千葉県生まれ。中国での教会の発展と変遷に興味を持ち、約20年が経過。この間、さまざまな形で中国大陸事情についての研究に携わる。国内外で神学及び中国哲学を学び修士号を取得。現在博士課程在籍中。