コロナ後に問われる教会と神学 ホッとスペース中原理事長 佐々木炎さん 人を見れば自ずと神が見えてくる

 信徒の高齢化、牧師不足が深刻さを増す中、コロナ禍によって会堂に集うことを前提とした活動が制限された教会は、この数年間で根幹から大きく揺さぶられた。

 介護から触法者支援まで、教会の働きとして福祉事業を展開してきたホッとスペース中原の佐々木炎さん(日本聖契キリスト教団中原キリスト教会牧師)は、これからの行く末をどう見ているのか。同じ施設でケアマネージャーとして働く林義亜さん(同教会協力伝道師)と一緒に話を聞いた。

断絶された「つながり」の回復

未曽有のコロナ禍で福祉業界も対応を迫られた。核家族化ですでに分断は深刻化していたが、一層「つながりの貧困」による格差が露呈した。制限の多い中、ホッとスペース中原ではさまざまな境遇の多様な人々がともに集って食事をすることを大切にしてきた。障がい者、子育て中のシングルマザー、シェアハウスに住みながら事故で働けなくなった男性、どこに助けを求めていいか分からない元受刑者……。佐々木さんが目指すのは、「困ったら互いに助けを求められる安らぎの場」。

こうした機能は元来、教会が有していたはずではなかったか。しかし、信徒も牧師も高齢化の一途をたどり、存続自体が危ぶまれる教会も少なくない。「将来に対する展望よりも、今をどう生き抜くかという目の前の問題に終始してしまう傾向は否めない」と話す佐々木さん。この間、教会がより内向的に純化され、ますます排他的になるという悪循環を痛感してきた。保守的「福音派」ほど、その傾向は顕著だという。

組織が自己保身に走れば、自ずと世間からは遠ざかる。結果的にそうした状態が慢性化することは、教会の将来を危うくしかねない。当事者には、そうした危機的現状への自覚があるのか。

佐々木さんよりふた回り年下の林さんは、「若い世代は、ある程度の危機感を共有しているが、教会の伝統という『空気』をくみ取って、踏襲せざるを得ないのではないか。牧師個人としては自覚しつつも、教派・教団という単位では動きにくいというのも現実」と冷静な見方を示す。「教勢が低迷する今こそ伝道が必要だ」という喝破にも違和感があり、いまいち乗り切れない。

神学をバージョンアップする好機に

日曜日の決められた時間に教会へ行ける人たちしか恵みに与れないという狭い教会観が、コロナ禍を経て変容を迫られた。オンライン配信が普及した一方で、コロナ禍が終息傾向にある今、教会もまた元に戻りつつある。「技術的な面では変化したが、教会の本質という点においてはあまり変化せず、むしろ以前に戻したいというのが本音ではないか」と林さん。

同時に、今回の世界的な危機は、既存の神学を問い直す好機でもあるはず。西洋からの〝借り物〟だった20世紀の神学を精査し、21世紀の神学にバージョンアップする必要性を説く佐々木さんは、カトリック神学の祖・アウグスティヌスに物申したいことがあるという。「あなたが贖罪や悔い改めを強調し過ぎたことによって、現代ではこんな悪影響が出ていますよ、と」

キリスト教福祉の現場では、弱っている人が回復することこそ救いの結果であり、そこに福音があると伝える傾向にあると林さん。自身の病について「完全な癒やし」を祈られてきた経験から、「病が罪の結果だと考えるうちは、いつまでも救われない。たとえ問題が解決しなくても、なお神はともにおられ、愛されているということこそが救い」だと話す。信仰によって高齢者が若返るわけではない。誰も老いや退化を止めることはできない。洗礼によって「世的な繁栄」が保障されるわけでもない。しかし、ありのままで生きていけることが祝福であり、そこに神の恵みがある。

日曜日は礼拝も行われる施設内。説教を語る林さん。

社会そのものが教会

それでも、「人を見ずに聖書を見よ」という声は根強くある。社会的な支援を「ヒューマニズム」に基づく活動として、教会の本分とは捉えない教会も少なくないが……「どこに力点を置いて、何を強調するかの違いにすぎない」と佐々木さん。救済論をめぐる議論についても、「『再臨の際にお確かめください』としか言いようがない」ときっぱり。そのもとで働きながら、林さんは同じ思いを重ねてきた。

「最終的に誰が救われるかは、神の領域なので私には分からないとしか言えないが、すでに救われた『教える側』と、この世の『教えられる側』を分けて考えるのはやはり違うなと。イエス・キリストが人として地上に来た意味を突き詰めれば、社会的に排除された者たちに寄り添い、徹底的にともに生きたイエスの姿から学ぶべき。私が遣わされた地ですべきことは、誰かの罪をあげつらうことではなく、イエスの生き方に倣って神の栄光を表すこと。神の恵みの範囲はもっと広いはず」

英会話教室や子ども食堂など、地域に開かれた活動を展開する教会が増える一方、それが「社会の必要に応答する働き」ではなく、「最終的に教会へ来てもらうための手段」になっていないか。

まさにコロナ禍で問われたのは、「教会とは何か」という根源的な問いだが、「社会そのものが教会」だと佐々木さんは考える。「社会が教会に期待していることは多い一方、教会が一向に社会へ出ようとしていない。教会が教会だけで生き延びるのではなく、公共における財産に気づかなければ。教会か社会か、特別恩寵か一般恩寵かと二者択一で明快に区別するのではなく、あいまいさを担保しつつ逡巡することが必要」

利用者と語り合う佐々木さん(左)

認知症の利用者に支えられた元受刑者

昨年末に刑期を終え、刑務所からの紹介でホッとスペースにたどり着き、今は一スタッフとして住み込みで働く元受刑者、Aさんにも話を聞くことができた。

15歳で暴走族に入り、17歳で裏稼業へ。25歳で全身に入れ墨を入れ終えた。かけた総額は300万円余り。暴力団員として生涯を終えるつもりだったが、さまざまな悪事に手を染める中で、命がけで足を洗う決意をする。網膜剥離は、その時に受けた暴行の後遺症。結局、薬物の売買で着の身着のまま逮捕され、服役することになったAさん。「ずっと苦痛だった。殺されるかと思ったが、それでもやめたかった」と当時を振り返る。

家族、親族との縁を切って極道の道へ入ったため、住む家も身寄りもなく、出所時の所持金は、わずか1万円足らず。この先、どうして生きていくのか想像すらできなかった。Aさんのように、運良く施設に入れる受刑者はごく一部。行く当てもなく再犯を繰り返す例も珍しくない。

ホッとスペース中原に来た当初は、そこがデイサービスの施設であることも、教会であることも知らなかった。それまで、クリスチャンと会うことも、教会に足を踏み入れることもなかった。「どんな素性かも知れない人間の身元を引き受けるなんて、すごい人だなと。仕事と居場所を作ってもらえてありがたい。今まで悪いことばかりしてきたので、自分にできることは何でもしてあげたい」と話すAさん。

ある時、深夜に徘徊する認知症の利用者が、Aさんの部屋と知らずに入ってきて寝てしまうことがあった。怒って追い出すこともなく、ただ黙ってそのまま一夜を明かした。部屋を変えることもできたが、あえて変えることはしなかった。初めて人から頼りにされる経験を経て、いずれは介護職に就いて人のために働きたいと夢を抱く。

出所した受刑者は経済的に困窮し、就職も難しい。同じように苦しむ人は少なくない。Aさんがかつて体に刻んだ消せない入れ墨も、人目に触れないよう細心の注意を払う。世間の冷たい視線にさらされた恐怖はぬぐい切れない。「個人の力ではどうすることもできない。1人で更生するのは難しい。こういう場がもっと増えてほしい」と話す声には力がこもる。

かつて刑務所から出所した教会員が、服役中、献金できなかったことを理由に除名された教会の例もあるという。佐々木さんは言う。「Aさんとの出会いを通し、偏見を持ってはいけないと教えられた。過去がどうであっても、今を生きていく人を応援したい。触法者支援に限らず、さまざまな境遇の人に出会えれば自ずと神にも出会え、教会のなすべき働きも見えてくるはず」

コロナ禍が終息に向かいつつある中、残された課題と教訓は大きい。

(本紙・福島慎太郎、松谷信司)

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