1949年10月、中国共産党の毛沢東を指導者とする中華人民共和国が成立した。アヘン戦争(1840~1842年)以来の苦難の歴史の中で疲弊していた中国人にとって、新国家の成立は民族としての自尊心を回復する出来事であった。このような感情は、カトリック信徒を含む少なからぬ中国人キリスト者にも共通するものであった。
だが、共産党が無神論を信奉する政党である事実を考えれば、新国家の成立はキリスト者にとって新たな苦難の始まりそのものだったはずである。中国全体が無神論により支配される「赤い〝人里〟」へ姿を変えたに等しい状況にあってキリスト者がなし得ることは、人里を離れて祈ったイエスに倣い、この新たな「人里」から距離を置いて祈ることにより、神の愛のうちに生き続けることであった。それにもかかわらず、一部のキリスト者が新国家の成立を歓迎した背景には、新政権による宗教への「寛容」な姿勢も影響を及ぼしていたであろう。例えば、1949年9月末に新国家の臨時憲法として採択された「中国人民政治協商会議共同綱領」第5条では、「宗教信仰の自由」が「公民の権利」として明記されていた。
しかし、それとは逆に、共産党による宗教への抑圧は全国政権の成立以前からすでに始まっていた。共産党の根拠地であった広東省海豊では1927年12月25日、500名余りのカトリック信徒が共産党により殺害された。また、陝西省延安では、同地のカテドラルであった橋児溝カトリック教会が1936年、共産党に接収され、当初は中国共産党「中央党校」講堂として、後に「魯迅芸術学院」校舎として転用された。
その後、「第二次国共内戦」(1946~1949年)の過程で共産党の支配地域が拡大すると、宗教への抑圧は激しさを増した。新国家の成立に先立つ1949年5月に共産党により「解放」された上海では、「聖心会」が運営する上海震旦中学等の学校が共産党の監視下に置かれ、校内での宗教教育に対する干渉が始まった。そして、新国家の成立後は、カトリック教会内にキリスト像に替わり毛沢東の肖像画が掲げることが、当局により強要された。無神論国家という「赤い〝人里〟」からの圧迫という現実を前に、カトリックをはじめとするキリスト者が「人里離れた場所」で祈ることは、困難になっていった。1950年代初頭からカトリック教会内の「愛国的」聖職者と信徒により展開された「三自革新運動」は、それに拍車をかけた。
そして、さらなる追い打ちをかけたのが、1955年に導入され1993年まで実施された食糧配給制度であった。この制度の導入により、聖餐式で用いるパンの材料となる小麦粉も国家の管理下に置かれることとなった。カトリック教会にとっては、「赤い〝人里〟」との関わりを持たなければミサで用いるホスチアを製造できないという、想定外の事態が出現したのである。それは、カトリック信徒がミサで「聖体拝領」を受ける機会が事実上、「赤い〝人里〟」とその権力により奪われることを意味した。一方、権力の側は食糧配給制度を利用することにより、カトリック教会の信仰生活に干渉する術を手にしたといえる。
新時代への「希望」はこうして、「赤い〝人里〟」での苦難の日々へと姿を変えた。そして、「人里離れた場所」での祈りを求める中国カトリック教会の、今日もなお続く困難な歩みが始まったのである。
【参考文献・論文】
・Madeleine,Chi 2001.Shanghai sacred heart: risk in faith,1926-1952. Society of Sacred heart.
・中津俊樹 2012「中華人民共和国建国初期におけるカトリック教会をめぐる動向について―『人民』の創出と『内心の自由』をめぐって」『中国研究月報』Vol.66 No2.
・2019「1955年『龔品梅反革命集団事件』に関する考察」『中国21』Vol.51
中津俊樹
なかつ・としき 宮城県仙台市出身。日本現代中国学会・アジア政経学会会員。専門は中国現代史。主要論文は「中華人民共和国建国期における『レジオマリエ』を巡る動向について」(『アジア経済』Vol.57,2016年9月)など。
【東アジアのリアル】 皇帝のものは皇帝へ、神のものは神へ――中国カトリック教会が歩んだ道(3) 中津俊樹 2022年10月1日