新しい共同体 井上 創 【地方からの挑戦~コレカラの信徒への手紙】

富士見高原教会の初代牧師である古清水万太郎牧師は、歩いて伝道をする人でした。険しい山間にある富士見の地を、あちらの村、こちらの里と歩き回り、やがて各地の集会には100人規模で人が集まるようになります。戦後間もなくのことであり、他に娯楽の少ないこの地域において、西洋の宗教やそれにまつわる知識は珍しく、人々の興味を引いたこともあるでしょう。しかし、これは万太郎牧師がこの地に生きる一人ひとりに心を注いだ成果でもあったと私は思います。

そのころ、富士見の山奥に一人の帰還兵が住み着きました。人との交わりを避けるように暮らすその人のもとに、万太郎牧師は足しげく通いました。これは私の想像なのですが、その帰還兵は戦場において何か辛い思いをしたのではないでしょうか。それゆえ地域の人たちとの関係を断ち、一人で生きようとしていたのかもしれません。人に傷つけられた痛みか、人を傷つけた後悔か、あるいはその両方か。やがて、この人は万太郎牧師に心を開き、その訪問を快く迎えるようになりました。

また、万太郎牧師はこの地に住む、手の不自由な日本画家とも親しい交わりを持ち、牧師館のふすま絵を描いてもらうほどに関係を深めました。帰還兵や手の不自由な人。このような人たちは、御柱を中心とした共同体を形成している地域において果たすべき責任を果たせない人たちだったのではないでしょうか。

集会には多くの学生も参加していました。戦時教育によって植え付けられた価値観が戦後に引っ繰り返され、アイデンティティを喪失した学生も少なくなかったことでしょう。それまでの「当たり前」が揺らぎ、これからどのように生きていくべきか迷う若者たちから、教会は新しい価値観に基づいた共同体の器として期待されていたのではないでしょうか。

価値観が多様化し、氾濫していると言われている現代において、地域共同体もほころびを見せているように思えます。このことは、戦後の日本においても、あるいは地中海全域がヘレニズム化(ギリシャ・ローマ化)していた新約聖書の時代を生きた人々においても同じことが言えるのではないかと思います。既存の価値観、既存の共同体からこぼれ落ち、さまよう1匹の羊を見つけ出して抱きとめることは、神さまが教会に託してくださった役割です。と同時に、この羊が帰るべき群れ、それまでいた群れとは別の新しい共同体を形成していくことが教会には求められているのでしょう。

共同体の形成において大切なのは体験の共有であることを、私はPTAの親睦会から学びました。それぞれ違う人生を歩んできた人たちが教会にも集まります。そこでは、イエスさまと出会い、招かれたという体験が分かち合われ、礼拝において「共にみ言葉の糧をいただく」という体験が繰り返されます。こうして信仰に基づく体験を縒り合わせて、教会は日々新しい共同体となっていきます。徴税人や娼婦など、罪人と呼ばれ共同体からはじかれた人たちと同じ食卓を囲んだイエスさまのように、教会も地域の共同体からはぐれた人たちを見つけ出し、受け止め、養っていく営みを未来に向けて続けていくことができたらと願っています。

井上 創
いのうえ・はじめ
 1976年東京生まれ。明治学院大学、ルーテル学院大学、同志社大学神学部神学研究科卒業後、千葉教会、武蔵野扶桑教会、霊南坂教会を経て、現在、日本基督教団富士見高原教会牧師。趣味は漫画。

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