みなさん、教会に必要なのは人間の知恵や力ではないのです。私たちが地域社会と関わるのは伝道のためではなく、教会が神の愛を分かち合うためだからです。
子ども食堂を始めたころ、教会の財政は慢性的な赤字が続き、私たちはおそれに取りつかれ、ひどく不安でした。役員会でも財政をどうしたら安定化できるのかの議論が続いていました。しかし、いくら「ないもの」に心を奪われていても仕方がありません。私たちは「すでに与えられているもの」に目を向け、感謝することにしました。すでに与えられているものに感謝できないのに、さらに与えられたとしても感謝できないと考えたからです。その時に、私たちは「自分たちの必要をどう満たすか」ではなく、「神様からいただいた愛をどう教会の外に向けるか」が教会のあるべき姿だと気づかされたのです。
イエス様が5000人を満腹させた時を思い起こしてほしいのです。もし、あのとき2匹の魚と五つのパンを見て、「これじゃ何の役に立たない」と言ってしまえば何も起きませんでした。もし、イエス様と弟子たちが「まず私たちだけで食べましょう」と言ってしまっても奇跡は起きませんでした。分かち合った時に、奇跡は起きたのです。
子ども食堂を始めて数カ月経ったころ、想定の倍以上の人が来てしまいました。しかし、小さなお子さんも大人もそれぞれに必要な量を分け合っていくと、ちょうどよく行き渡りました。
デザートの献立にクレープを考えていると、当日クレープ屋さんでバイトしている学生さんが手伝いに来てくれて綺麗にクレープを巻いてくれました。SNSを見て、フードバンクから食料品を持ってきてくださる地域の方がいます。近所の友達を誘ってきてくれるお子さんもいます。必要なものは神が備えてくださるのです。
感謝なことに財政はいつの間にか安定し、礼拝への出席者も増えてきました。しかし、子ども食堂の会計は教会とは独立していますし、子ども食堂にいらした方が礼拝に来ているわけでもありません。この因果関係は人間の知恵では説明できないことなのでしょう。
しかし、これだけは言えます。地域社会は意外にも教会の本質を鋭く見抜いているのです。私たちが誰の力に頼って、どのような動機で、何を目的に歩んでいるのか。近くの高齢のご夫婦は、子ども食堂や礼拝のある日曜日に、子どもたちが遊び回っている声を聴くためにわざわざ家の外まで出てきてくださっているのだそうです。子どもたちの声を聴いて、その様子を見ていると元気が出てくると教えてくれました。
また最近、近所に住む1人のおばあちゃんが神様のもとへと帰っていきました。この方が礼拝に来ることはありませんでしたが、教会の前を通る時、静かに十字架に手を合わせていたのです。
私たちが思っている以上に、教会は「地の塩、世の光」なのです。私たちが誰の力に頼って、どのような動機で、何を目的に歩んでいるのか。問われているのは、私たちの生き方そのものではないでしょうか。
かどた・じゅん 1983年生神奈川県生まれ。上智大学経済学部卒業、社会福祉法人カリヨン子どもセンター勤務を経て日本ナザレン神学校へ。現在、日本ナザレン教団 長崎教会牧師(7年目)。趣味は愛犬とお散歩、夫婦と犬2匹猫1匹で全国を旅するのが夢。