それぞれの〝物語〟尊重されるべき
人間は物語を信じる力を持って生まれてきた。その力は時に人々を救い、励まし、寄り添い、解放し、人と人との間に精神的な強いつながりを作ってきた。私はその繊細で可能性に満ちた美しい力を愛おしく、誇りに思っている。
私は統一協会の「祝福二世」としてこの世に生まれた。父と母は見知らぬ者同士で統一協会の教義によって結ばれ、その信仰によって生まれたのが神の血統を継承した〝祝福〟二世と呼ばれている。生まれながらに原罪のない存在と言われた私たちは、信者にとってこの世の何よりも尊く清らかであり、めでたく祝福二世を生んだ両親はまさにアダムとイブを生み出した神のような自覚があったように思う。
「この堕落した醜い世界をまた1から作り直す。自分たちはそのために神に選ばれた選民である」。教会に与えられたその分不相応な使命感が両親を狂わせ、家庭を崩壊させ、修復不可能なほどに子どもたちの心を壊してしまった。
我が家は貧乏だった。親は教会に献身し、ただでさえ薄給であることに加えて、たび重なる献金のノルマで生活費どころか祖父母の預金すら無断で使い果たし、私たちきょうだいは学校に通うことすらままならなかった。例えば小学生のころ、父がゴミ置き場から拾ってきた知らない名前の彫ってあるリコーダーを使っていた。みんなと色の違う、知らない子の歯型のついたリコーダー。恥ずかしくていつも名前の部分を隠していた。中学生のころは、きょうだいが警察に補導された。盗難届けの出ている自転車に乗っていたからだった。自転車を買うお金があるはずもなく、その自転車も父がどこかから拾ってきたものだった。警察からの連絡できょうだいを迎えに行った父は、申し訳なさそうにうつむいていた。目を逸らしたくなるほど情けなく、悲しい顔をしていた。
どれだけ〝普通でない〟ことを隠しても、私がクラスの異分子であることは子どもたちの繊細な肌感で伝わっていたのだと思う。数日に一度しかお風呂に入れてもらえず、いつも同じ服を着ていて、みんなの見ているテレビ番組も知らない。両親には一般の友だち、つまり〝サタン〟と遊ぶことは禁止されていた。普通の子どもに擬態するために不自然な言動を繰り返す私は、当然のようにいじめに遭った。上靴には画鋲。机には彫刻刀で「しね」と彫られ、何かの拍子に私に触れると「くさい」「汚い」と言われ、時には教師も加わって私の〝菌〟をうつし合った。グループに分かれる時はいつもどこにも入れてもらえず、給食はわざと平気な顔をしてひとりで食べた。
誤解しないでいただきたいのは貧困、そしていじめが二世特有の辛さだと伝えたいわけではない。私が私であること、ありのままの自分の姿を誰にも認めてもらえなかったことが何よりも辛く、苦しかった。両親の前では〝神の子〟でなければならず、社会に適応するためには見よう見まねで習得したハリボテの〝普通の自分〟でなければならなかった。幼いころから人に愛されるため、自分を殺して生きなければならなかったことが、今でも消えない深い傷になっている。私はありのままの自分を愛することを許されなかった。
献金をやめてほしかった。教会に行きたくなかった。みんなの持っている鉛筆が欲しかった。テレビ番組が見たかった。少女漫画だって読みたかった。友だちと遊びたかった。話を聞いてほしかった。誰でもいいから私自身を見てほしかった。いつも私の姿を透かして教祖を見ていた両親は、私の訴えることなど自己中心的で悔い改めるべき堕落した感情だと叱った。言葉で足りない時は暴力で私を罰した。山に連れていかれ、裸足のまま放置されたこともあった。いずれも神の子にふさわしくない私を罰するために、使命を持って〝神のために〟やったことである。私は、両親の信じる得体の知れない神の生贄になるためだけに生まれたような気がした。
私は常に何かに擬態して生きてきたせいで、長い間、自分が何を〝好き〟なのかも分からなかった。自分を取り戻すためには過去に嫌悪し、殺した自分自身と向き合わなくてはならず、それは想像を絶する痛みを伴った。時に希死念慮すら引き起こすその痛みとは、これからも、おそらく一生向き合わなくてはならない。過去にありのままの自分を愛せなかったことは、大きく重い足枷となってその後の人生を狂わせてしまう。自分を愛せないということは、人を愛することもできないのだから。
私が孤独と絶望の中で今まで生き延びて来られたのは、心のどこかで架空の希望の物語を信じてきたからだと思う。他人の描いた物語に共感、共鳴し、心を救われたこともある。その一つひとつが私にとって宝物であり、作者と自分との間に実体を持たず宙に浮いた、それでも確実に存在する精神的なつながりが何度も孤独を癒やしてくれた。
人それぞれの信じる物語が宗教であろうと、芸術であろうと、動物であろうと、自然であろうと、一過性のものであろうと、一生をささげるものであろうと、等しく尊重されるべきだと思う。両親に対してもそのように思っている。しかし、それは自分で選び取ったからこそ意味をもつものだと私は思う。
信仰とは、物語と自分との間の余白に宿るものではないだろうか。その余白に言葉を与えるなら感動、共鳴、もっと崇高な想いかもしれない。けれど、それはその時、その瞬間の自分だからこそ感じられたもの、だからこそ尊いものではないか。たとえ同じ物語を信仰していたとしても、それぞれの余白に一つとして同じものはないはずだ。
その上で、たとえ自分の子であろうと、本人の意思を無視して信仰を強制し、思考や感情をジャッジすることは、本来それぞれが選び取るはずの尊い感動や経験、そして自分自身を深く知り、愛する経験を奪い取ってしまうことになり得る。それが誰かにとっては救いになった事実があったとしても。
世界は物語に満ちている。100人いれば100通りの物語があり、それぞれに神聖な余白が内包されている。みんなが同じ物語を信じなくてもいい。自分が物語を作ってもいい。物語なんて信じなくてもいい。ただ、それぞれの生まれ持つ力を信じてほしい。それぞれの生き方を尊重してほしい。善悪のジャッジをせず、ありのままの子どもたち、そして自分自身を愛してほしい。
宗教を問わず信仰を持つ皆さんへ。どうか子どもたちの選択の自由を奪わないでほしい。私たちはひとりにひとりぶんの命。1人分の経験しかできないのだから。神様の前に、まずは美しく尊いありのままの子どもたちを信じて、愛してあげてほしい。それがどんなものであっても、それぞれの選び取る経験を信じて受け入れてあげてほしい。
私たちは時に人に傷つけられ、人を傷つけ、嫉妬し、怒り、悲しみ、苦しみ、そうして生きていく。そんな自分自身のすべてをまず受け入れ、許し、愛した時、初めて他者を受け入れ、許し、愛することができる。醜い自分も含めて、すべての経験が愛を知るために必要な物語なのかもしれないと、私は思う。
最後に、宗教を問わず辛い思いをしてきた二世の皆さんへ。あなたが固く乾いた大地に根を張り、雨に打たれ風に吹かれ、誰にも存在を知られずひたすら耐えていた時、あなたに水をあげることも雨風から守ることも寄り添うこともできなかったけれど、あなたが身体を震わせひとり孤独に耐えていた時の気持ちが、私にはよく分かります。たとえ見えなくても、いつも心の手をつないでいた二世の仲間がいることをどうか知っていてほしい。
そしてあなたの咲かせた花がどんな色や形であっても、誰に何を言われようとも、ありのままのあなたが世界で一番美しいということ。それだけは信じていてほしい。
あん(統一協会2世)
(仮名)現在は信仰をもたず統一協会とは離れている。映画、本好き。
【シリーズ・「2世」の呻き】 心閉ざして自己防衛 監視する怖い神のイメージ 馬場 薫(クリスチャン2世) 2023年2月1日