「私たちの未来の子どもや孫たちが、ロボットによって伝道されることはないだろう」。「クリスチャニティ・トゥデイ」編集長のラッセル・ムーア氏がニュースレターに書いた記事を紹介する。この11月に発売された、不気味なほど正確な人工知能(AI)の情報収集・執筆チャットボット「ChatGPT」の影響を憂慮する声が増している。
教師たちは、どんな学生でも数分以内に完全な形で脚注付きの論文を作成しようと思えばできるようになったら、高校や大学の本物のエッセイが再び可能になるのだろうか、と考えている。また、「AIが従業員の人事考課をするようになるのでは? そして、このスマートテクノロジーは、教会の説教壇という別の場所に向かうのでは?」と危惧し始めている。
ジャーナリストのマット・ラバシュ氏は、ニュースレターで痛快に「ネオ・ラッダイト」な大言(IT開発を阻止し利用を控えようとの考え方)で、ニューヨークのラビ、ジョシュ・フランクリン氏がチャットボットに説教を丸ごと書かせたと指摘した。彼は、説教が他の誰かによって書かれたものであることを、その後も会衆に伝えなかった。
誰が書いたか推測するよう会衆に頼んだところ、彼らは晩年のジョナサン・サックス(おそらく過去20年間で最も有名なユダヤ教の説教者)を特定した。自分たちがとても好きな説教が、人の手をまったく借りずに作られたものだと聞かされた時の会衆の反応を想像してみてほしい。
それがキリスト教の説教の未来なのだろうか? 「もちろん違う」と答えるかもしれない。そんなことが起こり得るとは信じられないと思うかもしれない。しかし、30年前の人にGoogleやスマートフォンの聖書アプリを説明しようとすることを想像してほしい。もし、どこにでもアクセスできるAIが、毎週、牧師のために、完全に正統的で、聖書に基づいた、抗しがたく議論された説教を書くことができたらどうだろうか。
アメリカの著名な作家であるギャリソン・ケイラー氏は、ある男性牧師が幼児洗礼を信じるかどうか尋ねた話をした。その男性は、「信じているかって? ……私はそれが行われたのをもう見てしまったよ!」と答えたそうだ。もし私たちが、AIが聖書を知ることができるか、テーマや背景を研究することができるか、また人生への応用や行動の指針を書くことができるかどうかを尋ねているのなら――そう、私たちはもうそれが行われるのを見てきたのだ。
しかし、本当の問題は技術的な可能性ではない。教会指導者の倫理的な問題でもない。むしろ問題は、説教とは実際に何であるかということだ。
私が12歳ぐらいのころ、私が神からフルタイムのミニストリーに召されているのかもしれないと初めて牧師に話した時、牧師は3週間後の日曜夜に私が説教をするだろうと言った。私は、「今、呼ばれているのではなく、大人になったら呼ばれているのだ」と言った。すると彼は、「では、私が今君を呼んでいる」と答えた。そして、彼はそのようにした。彼は私に「説教の始め方」、聖書のテキストの概要、そして可能な応用をまとめた本を渡してくれた。そして、話し方や聖書本文の解釈のコツを教えてくれた。
その日曜日、私はバプテスト教会の洗礼堂の横にある小さなトイレに入り、説教の直前と直後の両方で嘔吐した。説教はひどいもので、録音されていなくてよかったと思った。
しかし、そこには美しいものがあった。私が愛している人々、そして私を愛してくれている人々、つまり日曜学校やトレーニングユニオン、バケーションバイブルスクール、私を教えてくれた人々の集まりを眺めることになることを、彼は知っていた。私がどんなに口ごもったり、居場所を失ったりしても、彼らが私の味方であると安心させてくれる、そんな顔なじみの人たちを見ることも知っていた。
また、どんなにひどい説教をされても、終わった後に励ましてくれ、祈ってくれることも知っていた。そして、この小さな男が説教壇にいることで、福音が未来に向かって進んでいること、つまり、神は今も「光を送り」、召された者を呼び出していることを会衆に思い起こさせてくれることも知っていたのだ。
その瞬間、ページ上の内容や私の言葉を超えた何かが起こったのだ。実際、その「何か」が何であったのか、うまく説明できるかどうか分からない。
長年にわたり、神学校で教えたり、牧師のグループで奉仕したりする中で、ほとんどの生徒の主な問題は、聖書の真実を見分ける能力や大勢の人の前で話す能力が不足していることではないことに気がついた。
現在の説教者、また説教者を目指している人の中には、聖書や説教という仕事に真剣に取り組んでいない人がいることは知っている(まさかと思うかも知れないが……!)。しかし、私が今まで教えた人の中には、ほとんどそのような人はいなかった。むしろ、ある人たちは、注解書を照合し、テキストをポイント、サブポイント、サブサブポイントに図式化する傾向があった。
そのような生徒の多くは、最終的に説教の瞬間はその部分の総和を超えるものであることを理解し始めた。そして、最良の場合、私たちの聴衆も同じことを目撃するはずだ。確かに説教には、テキストを知り、それを人々に伝えることのできる人が必要だが、それは単に情報を伝達することではない。
説教者は福音を伝えるのだ。それは、神の裁きを語る説教であっても同じことだ。バプテスマのヨハネは、説教を聞く者たちが、来るべき神の怒りから免れるべきまむしであり、やがて消せない火で焼かれる籾殻であると言った後、ルカによる福音書には、「ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた」(3章18節)と書いてある。
説教を聞く時、あなたは動機づけのためのスピーチや、聖書的、神学的、倫理的なセミナーを聞くのではない。AIプログラムは、教義上の伝統、所属教派、好みの聖書翻訳に特別な注意を払いながら、そのすべてを行うことができるかもしれないが。
「ChatGPT」はアーネスト・ヘミングウェイやウィリアム・シェイクスピアの文章を再現できるので、例えばチャールズ・スポルジョン、ジョン・パイパー、ジョエル・オスティーンなどのスタイルで説教を書くように指示されても従えないわけはないのだ。
使徒パウロは、コリントの教会に向かって、自分自身と自分とともにいる人々について、このように書いている。「神が私たちを通して勧めておられるので、私たちはキリストに代わって使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神の和解を受け入れなさい」(コリントの信徒への手紙二5章20節)。私たちが説教されるみ言葉を聞く時、それは神についての言葉ではなく、神からの言葉を聞いているのです。
大使が大使館からの通信に勝手に手を加えることができるだろうか? できる。不誠実な外交官が通信を書き換えることができるだろうか? それは常にあることだ。だからこそ、会衆は聖書的な根拠とみ霊の知恵をもって、メッセージを吟味する必要があるのだ。
み言葉を伝えることの重大さは、データを集めて発表することと同じではない。私たち聴衆は、贖われた罪人の仲間から、そのテキストに取り組んでいる人の話を聞くのが一番だ。
私たちは研究者のように情報を探すのではなく、行方不明の兵士の両親のように、玄関で士官が我が子の消息を教えてくれるのを待っているのだ。事実、関わり合いが大きければ大きいほど、「良い知らせ」はより喜びの大きなものとなる。
「あなたの子どもは生きている」なのか、「あなたの子どもは死んだ」なのか、そのメッセージは両親の人生を根底から覆す可能性があるのだ。メッセージの文言はある程度重要だ。しかし、ここで重要なのは、この種のメッセージはテキストや電子メールで送ってはいけないということだ。このような人生を左右するニュースは、人間が直接伝える必要があるのだ。
チャットボットはリサーチができる。チャットボットは文章を書くことがでる。おそらくチャットボットは、弁舌もできる。しかし、チャットボットに説教はできない。
(翻訳協力=中山信之)