今年7月8日に起こった安倍晋三元首相の銃撃・死亡事件は痛ましい衝撃的出来事ではあるが、この事件はその後、統一協会問題や国葬問題へと波紋を広げている。一般世論同様、日本のキリスト教会でも同事件や安倍元首相に対する評価をめぐってさまざまな意見が見られるが、ここでは事件直後の台湾基督長老教会(以下、長老教会)の反応を紹介したい。
長老教会といえば、台湾を代表する最大教派の一つであり、70年代から80年代には民主化運動を牽引し、伝道活動と共に民主主義や人権に関する活動を重視する教派としても知られている。長老教会は日本基督教団や日本キリスト教会などの日本の諸教派とも宣教協力を結んでおり、2011年の東日本大震災に際しては、多くの献金とボランティアを日本に送ってくれたことは記憶に新しい。
銃撃事件直後、台北の「台湾・日本交流協会」(以下、交流協会)に「哀悼の壁」が設けられ、多方面から献花や弔文が寄せられていた中、長老教会の総会議長と総幹事は「教会と社会委員会」に弔問を委託し、7月9日に同委員会の委員長と幹事が交流協会に献花に訪れた。その際、長老教会の信徒全体を代表する形で総会議長と総幹事が連名で、「安倍元首相 安らかに 台湾の永遠の友 共に苦難を担い 共に喜びを分かち合う」というメッセージを送っている。
さらに7月15日には長老教会に所属する多数の原住民の牧師たちが交流協会に弔問に訪れ、原住民の音楽家が作詞・作曲した「永遠の愛」という歌を奉唱している。その歌詞の後半部分はこうだ。
「永遠の愛、それは海を越え、時空を貫き、フォルモサ(台湾)に向かって吹いている/暖かく寄り添い、最も困難な時を共に過ごす/永遠の愛、それは海を越え、時空を貫いて台湾に向かって流れている/安倍の愛、それは永遠に台湾人の心深くに生きている」
長老教会が従来から日本に対して友好的姿勢を持ってくれていることは理解しながらも、同教会の牧師たちが歌う「永遠の愛」の歌詞を見て、驚き戸惑う日本のキリスト者は、決して筆者一人ではないだろう(もちろん、この歌詞に共感する人もいるかもしれないが……)。
誤解がないように補足するが、安倍元首相に哀悼の意を表したり、彼を高く評価したりする台湾のキリスト者を批判したいのではない。長老教会が日本に対する友情をこうした形で表したいと思ってくれていることや、他国の国内政治に関しては批評しないという礼儀を守っているのだろうことは推察できる。また、中国が台湾に大きな圧力をかけている情勢下にあって、日本が台湾との関係(たとえ正式な国交ではなくとも)を維持し続け、アメリカとも歩調を合わせて台湾を支持し、それを多くの台湾人が歓迎している、という大きな構図が背景にあることも、重々承知している。
しかしその上でなお、神学的・思想的には比較的進歩的であり、民主化運動を牽引してきた長老教会までもが、「台湾を支持してくれていた」という一点だけを強調して安倍元首相をここまで手放しで評価していることに、彼の政治思想や政治実績に対して批判的な見解をもつ者としては、やはり当惑を禁じ得ない。
翻って、筆者自身が普段から中国大陸や香港、台湾などについて語ったり書いたりしている事柄の中には、先方からしたら「的外れだ」「認識がずれている」と指摘されることが多々あるのかもしれない、とも思わされる。実際に身を置いている政治環境が異なっていたり、文化的・民族的アイデンティティーが異なっていたりする時に、同じような神学理解や政治理念を共有しているようでいても、実は容易には埋めがたい大きな溝が存在している「東アジアのリアル」な状況を改めて突き付けられた思いがしている。東アジアに身を置く私たちは、このギャップ(破れ口)にどのように向き合うべきなのだろうか……。
松谷 曄介
まつたに・ようすけ 1980年、福島生まれ。国際基督教大学、東京神学大学、北九州市立大学を経て、日本学術振興会・海外特別研究員として香港中文大学・崇基学院神学院で在外研究。金城学院大学准教授・宗教主事、日本基督教団牧師。専門は中国近現代史、特に中国キリスト教史。