清朝末期、台湾の漢人有力者の反キリスト教 王 政文 【東アジアのリアル】

清朝末期の台湾のキリスト教宣教は平埔族(清朝以前からの台湾原住民)が中心だったことを前回のコラム(2021年11月11日付本欄)で述べたが、では漢人たちはなぜキリスト教に反対していたのだろうか。

1865年に来台した宣教師ジェームス・マクスウェルは、現在の台南に診療所を開設し、伝道と医療を行ったが、すぐに反対運動が起こった。その理由として、台湾の保守的な文化に加え、外国の軍事介入・経済侵略・不平等条約などが台湾民衆の排外主義を招いたというような、「帝国主義の侵略」を要因と見なす説明が多い。また西洋医学に対する誤解からデマが理由だったと考える人もいる。いずれにせよ、一般民衆の目には、戦争・不平等条約・開港・外国商人や宣教師の来訪などは、一連の出来事として映っていた。 確かに当時の教会は、戦争がキリスト教精神に反すると考える一方で、こうした条約が福音宣教につながるとも考えていた。

【東アジアのリアル】 台湾のプロテスタント宣教初期の平埔族 王 政文 2021年11月11日

民衆の目には、開港後に台湾へやってきた外国勢力は、商人であれ宣教師であれ、「西洋の鬼・異国の蛮人」と映っていたわけだが、民衆が嫌っているのは単に宣教師ではなく、「西洋の鬼」であるすべての外国人であり、こうした外国人の行為が宣教師に対する誤解を招いている、とマクスウェルは考えていた。さらに彼は、「漢人医師」こそが外国人排斥の黒幕であると強く疑っていた。というのも、マクスウェルの診療所が無料であるだけでなく、西洋医学の即効性とが相まって、多くの患者をマクスウェルに奪われたため、漢人医師たちはデマを広げたり暴徒まで集めたりして、自分たちの従来の仕事を維持せざるを得なかったのだ。

ジェームズ・マクスウェル(1836~1921年)

台湾北部で宣教したジョージ・マッカイも、同様の問題に直面している。彼が艋舺(バンカア)という場所に教会堂を建てようとした際、地元の有力者たちは民衆を扇動してキリスト教の進出を阻止しようとしたのだ。というのも、艋舺は「三大宗族」(晋江、徽安、南安)と呼ばれる有力一族に支配されており、キリスト教だけが現地に進出できなかったわけではなく、外国人商人も商館を構えることもできず、漢人が代理手続きをしようとしても命からがら追い出されるだけだった。

1877年9月、マッカイは地元信者を通じて艋舺の祖師廟に隣接する敷地の家屋を借り受け、礼拝堂に修繕しようとしたところ、地元有力者は土地所有者に対し「家屋を貸すならお前らを殺すぞ」と脅した。その後、艋舺の有力者たちは連名で、「その土地は建築予定地のため、教会に再度貸し出すことは困難である。……家屋所有者は貸出を許可していたものの、土地所有者も周辺住民も強く反対している。……外国人が家屋の屋根を高く修繕することで近隣住民は視界が妨げられる」といった趣旨の嘆願者を淡水県の知事に提出した。このように、地元有力者たちは、ありとあらゆる理由をつけて、キリスト教が地元に入ってくるのを阻止しようとしていたのだ。

意志の強いマッカイは、この件に関してイギリス副領事に助けを求め、なおも現地での伝道活動を継続し、そして同年12月には家屋の屋根の拡張工事を行ったが、地元有力者たちの妨害にあい、動員された200人余りの群衆によって木材は運び去られ、家屋も壊されてしまった。こうした地元有力者がキリスト教に反対したのは、単なる誤解や風水の問題ではなく、自らの権力を守るためだったと言える。

こうした事件は、単に地元有力者が庶民を圧迫していたということだけでなく、社会上層部のキリスト教に対する拒絶反応を反映しており、社会の有力者が従来の権力を維持するために、民間信仰を中心とした既成秩序を維持させようとしていたことが分かる。こうした有力者は地元の寺廟の所有者や責任者でもあり、寺廟は地元の権力を維持するための重要な手段であったため、この権力形態を崩す外敵を許さなかったのだ。もし社会下層の小作人がキリスト教に改宗しようとすれば、地元有力者の管理範囲から小作人たちが抜け出てしまうことは明らかであり、田畑が外国勢力の保護下に陥ってしまえば、それは地主等の有力者たちの社会的地位が揺るがされることになるのだ。

つまり宣教師をはじめとする外国人排斥の背後には、実際の利害問題があったことが分かる。(翻訳=松谷曄介)

 

王 政文
 おう・せいぶん 国立台湾師範大学歴史学博士、東海大学歴史学部副教授・同学部主任。専門は台湾史、台湾キリスト教史。特にキリスト者の社会ネットワーク・改宗プロセス・アイデンティティーの相関関係を研究。著書に『天路歴程:清末台湾基督教徒的改宗与認同』(2019年)など。

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