お寺はいつ行っても誰かがいて、いつ何時の来客や連絡にも対応できるように求められる。しかし住職は法要への出座、会合や行事への参加で寺を留守にすることが少なくない。兼業しているならばなおのこと、日常的に来客対応をしているのは妻たちである。午前中に白菜を持ってきたおじさんと2時間話し、やっと帰ったと思ったら弁当屋が来て、墓石業者が名義を貸してくれと夕方まで粘っていった。夜10時にテレビを見ていると葬儀の連絡が入り、翌日の学校の三者面談をキャンセルした……など、調査を重ねる中でさまざまなお話を聞いた。「毎日玄関先に座りいつ客人が見えてもいいように待機している」「土日に出かけたことがない、留守にすると怒られる」と話す者も少なくない。「いつも誰かがお寺にいるのに孤独を感じる」とポツリともらした方もいた。
社会学の有名な理論で、M・グラノヴェダーが提唱した「弱い紐帯(ちゅうたい)の強さ」というものがある。毎日顔を合わせる家族や仕事仲間などは「強い紐帯」、たまに会う知人などは「弱い紐帯」となる。そして、強度が低い、すなわち弱い紐帯の方が情報収集とコミュニティの結合に大きな結果を発揮するというのが、「弱い紐帯の強さ」である。緊密な強い紐帯は強固なつながりを形成し、よりコミュニティが結合するようにも思われる。しかし強い紐帯には、局所的に凝集した部分を生み出すため全体を見れば断片化をもたらすというパラドックスがある。
宗教には強い紐帯が欠かせない。修行者の集まりである「サンガ」はまさしく強い紐帯であり、これによって法は連綿と伝えられてきた。師僧と弟子の関係、法縁法類も同様である。いつ何時の来客も温かく迎え入れるお寺のあり方も、強い紐帯が志向されているからだろう。宗教が他の社会組織と異なるものがあるのは「強い紐帯の強さ」によるものだろうし、それによって果たし得る特別な機能や役割は確かにある。
一方で、女性たちの話を聞くと、グラノヴェダーのいう「断片化」の息苦しさも感じざるを得ない。親密な人間関係はあるのに孤独を感じるという寺族、「お寺は本来、聞法道場であるはずなのに、世間からまったく離れた閉鎖空間」(『中外日報』2001年5月17日)と訴える坊守のエッセイを読むと、強い紐帯を維持するためにそこに縛られる人たちの姿が浮かんでくる。
ある女性仏教徒グループの関係者は、「寺族は分断されていてバラバラ」だからこそ、例会に参加してもらうこと以上に、案内状や会報誌を定期的に届けることが大切だとおっしゃっていた。お寺を留守にできなくとも、これを読めば同じ悩みを抱えた人がいる、困った時に連絡する方法があると思ってもらえることが大事なのだと。ゆるやかなネットワーク型組織だからこそ宗派や立場の異なる人との出会いがあり、新しい気付きの契機がもたらされる。この話を聞いた時に思い出したのが、「弱い紐帯の強さ」だった。2000年代半ば、私が調査研究を本格的に始めたころである。
その後、ブログやツイッターなどさまざまな情報の発受信を可能にするツールが登場し、つながりのプラットフォームは多様になった。最近ではお寺の奥さんが匿名で集うオンラインサロンも人気らしい。音声SNSの「クラブハウス」は耳だけ参加もできるので、来客を待っている間にも気軽にできるかもしれない。さまざまなアイディアを温めている方がいる。弱くても確かなつながりを求める女性たちにとって、ICTの発展は仏の恩寵なのかもしれない。
丹羽宣子(宗教情報リサーチセンター研究員)
にわ・のぶこ 1983年福島県生まれ。一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程修了。博士(社会学)。國學院大學客員研究員。著書に『<僧侶らしさ>と<女性らしさ>の宗教社会学――日蓮宗女性僧侶の事例から』(晃洋書房)。