Q.小さな教会なので牧師にまともな謝儀を払えず、心苦しい思いをしています。(60代・教会役員)
ご質問の「まともな謝儀」とは、どの程度のことを想定しておられるのでしょうか? 世間一般の給与と比較してということでしょうか? 教派や教団によっては「教師謝儀基準」がありますから、それと比べてのことでしょうか? あるいは、牧師の年齢や家族の状況を斟酌してのことでしょうか?
いずれにしても、「謝儀が少ない」ことを心苦しく思っておられるお気持ちはよく分かります。でも、牧師の多くは教会からの謝儀が「多いか、少ないか」ということより、教会員からどれだけ支えられ、祈られているかということに喜びと満足を感じるのです。それが失われてくると、牧師と信徒の間にいろいろな「きしみ」が生じるのです。
「牧師の仕事は昼も夜もない24時間勤務だから、時給に換算すると少ない」「そう言いますが、牧師の主な仕事は月に4回、30分程度の説教。時給にすると高額です」「その説教の準備のために、1週間全部を使っている」「それにしては、説教が……」牧師と信徒の間で、時に交わされる哀しい会話。
とはいえ、牧師にも生活があります。必要なものは備えられなければなりません。教会にはその責任があります。特に、子どもたちが学齢期の間は牧師館の家計は想像以上に深刻です。ということで、牧師の生活に対する教会の配慮として「気配り」「心配り」「手配り」の三つを勧めます。それは気配、心配、手配でもあります。特に三番目は大切です。
「あなたがたは私の窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました」(フィリピ4:16)。パウロはそれを「香ばしい香り」と呼んでいます。こうした香りが満ちることこそ、教会の豊かさであり、牧師の喜びなのです。要するに、牧師に「まともな謝儀を払えない」ことより、もっと大切なことがあるということです。「まともなお答え」になったでしょうか?
*本稿は既刊シリーズには未収録のQ&Aです。
かんばやし・じゅんいちろう 1940年、大阪生まれ。同志社大学神学部卒業。日本基督教団早稲田教会、浪花教会、吾妻教会、松山教会、江古田教会の牧師を歴任。著書に『なろうとして、なれない時』(現代社会思想社)、『引き算で生きてみませんか』(YMCA出版)、『人生いつも迷い道』(コイノニア社)、『なみだ流したその後で』(キリスト新聞社)、共著に『心に残るE話』(日本キリスト教団出版局)、『教会では聞けない「21世紀」信仰問答』(キリスト新聞社)など。