【夕暮れに、なお光あり】 友人の死に想う 渡辺正男

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長年の友人が肺炎で入院して、コロナ禍のゆえにお見舞いもできないまま5月に亡くなりました。以前から葬儀を依頼されてきた間柄です。会えないまま死別するのは、とても心重く、つらいものでした。

彼は、90を超える高齢でしたが、夢や志を持ち続けていました。やりたいことがたくさんありました。属する教会が牧師の交代期で、「ふさわしい牧師が与えられるように祈ってほしい」と、何度も言われました。愛する教会の歩みを見届けたいと強く願っていたのです。

友は、与えられた命を全うしたのだと思います。けれども、彼は思い残すこと少なくなかった。志半ばにして倒れた、という感を禁じえません。高齢であったとはいえ、途上の死であったという思いを拭いえません。

「途上の死」をどう思われるでしょう。それは多かれ少なかれ、私たち誰にも言えることではないかとも思うのです。もちろん務めを成し遂げて、もう思い残すことはないという人生もあるでしょう。それは、感謝であります。ですが、多くの人は、いくばくかの思いを残して、途上で召されるのではないでしょうか。

自分の最期はどうなのだろうと、自問自答しています。

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モーセのことを想起します。高齢のモーセは途上で召されました。モーセはこう祈りをしています。「どうか私を渡って行かせ、ヨルダン川の向こうの美しい地、美しい山、レバノン山を見せてください」(申命記3:25)。けれど、主なる神は、「もう十分だ」と言われた。以前の口語訳聖書は、「おまえはもはや足りている」と訳しています。

モーセの願いは叶いませんでした。モーセは、ピスガの頂から約束の地をはるかに望み見ることはできたけれど、足を踏み入れることはできなかった。モーセの死は、いわば「途上の死」でした。そして、それが主のみ心でした。
友も、途上ではあったけれど、主の温かい計らいのうちに歩みを全うしたのだと、今はそう思っています。

私たちは、日曜日・安息日に礼拝に集います。日常の営みを中断して、教会の礼拝に集います。そして、主なる神をほめたたえます。それは、人生を中断するようにして天の安息へと召される「途上の死」の予行演習でもあるのでしょうか。

 「主はわたしに言われた、『おまえはもはや足りている』」(申命記3:26=口語訳)

わたなべ・まさお 1937年甲府市生まれ。国際基督教大学中退。農村伝道神学校、南インド合同神学大学卒業。プリンストン神学校修了。農村伝道神学校教師、日本基督教団玉川教会函館教会、国分寺教会、青森戸山教会、南房教会の牧師を経て、2009年引退。以来、ハンセン病療養所多磨全生園の秋津教会と引退牧師夫妻のホーム「にじのいえ信愛荘」の礼拝説教を定期的に担当している。著書に『新たな旅立ちに向かう』『祈り――こころを高くあげよう』(いずれも日本キリスト教団出版局)、『老いて聖書に聴く』(キリスト新聞社)、『旅装を整える――渡辺正男説教集』(私家版)ほか。

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