【トナリビトの怪】(2)キリスト教と弱い主体 波勢邦生 『アーギュメンツ#3』

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 「販売は手売りのみ」という驚くべき方法ながら、多士済々な著者らによって話題を集めた批評誌『アーギュメンツ』完結から3年。日本語キリスト教の可能性を論じた同誌掲載「トナリビトの怪」を本紙にて全文公開する。(2/8回)

  1. 地球をつかむ神の手
  2. キリスト教と弱い主体
  3. 世界民俗学とキリスト教
  4. 怪談「ジーマー」
  5. 怪談の形式と啓示の形式
  6. ダニエル書における二つの謎
  7. 太平洋弧に立つイエス
  8. 遅れた解題とあとがき

キリスト教と弱い主体

神の指と太平洋弧でせめぎ合う問題は、西洋的なるもの――キリスト教と近代化――である。ぼくは、太平洋弧における「遅れた近代」を考えている。ある言語・文化圏における遅れた近代化とキリスト教受容の仕方は、その社会が西洋近代的自我を「主体」としてインストールしてゆく過程と、軌を一にしている。「超越・啓示・主体」という社会的形式。ぼくはそこに、「主体」になりえなかったものの存在を捉えようと思う。それを、ここでは便宜的に「弱い主体」としよう。

「弱い主体」とは、近代市民社会を構成する「主体」に成り得ずに排除されたもの、または主体化以前の人間性である。たしかに、創世記のエデンにおいて、神は人に問うた。「あなたはどこにいるのか」。

「神の声」としてのキリスト教が現象するとき、必ず「主体」が問題になる。それは西洋近代的自我として想定されやすい。しかし「神の声」が要請するものが、自由と責任を引き受け、行為と意思の「主体」としての西洋近代的自我だけとは限らない。西洋的なるものを普遍として騙るキリスト教の一部は、これを西洋近代的自我として、まさに喧伝してきた。しかし、別の主体のかたちもありうるのではないか。

環太平洋域から考えるなら、相当に多くの言語圏と文化を扱わねばならない。しかし、その紙幅もないので、日本語でキリスト教について考えてみたい。なぜなら、日本語は英語やドイツ語のようにキリスト教と歴史的に一体化した言語ではないからだ。だから、まず「西洋的なるもの」に直面した日本を隣接文化圏と比較し、現地語キリスト教の行方を参照したい。

具体的には、米国文化と密着したプロテスタンティズムと直面したハワイ、日本、沖縄を考えられよう。プロテスタンティズムとは、一個の個人による聖書解釈の総体であり、それによる記述の分岐、すなわち明確な言語化である――それは非言語的な要素を背景化してしまう。

結果的に米国の一部となりキリスト教化したハワイと、植民地化を免れキリスト教化されなかった日本は対照的だった。当然、間に沖縄を入れることができる。ハワイ、日本、沖縄と並置することで、それぞれの歴史的位置が明確になる 。

まず遥かな隣人ハワイの事例を考えてみたい (6)。ハワイ人は、キリスト教を通じて「西洋近代的自我」と取っ組み合いの相撲を取らざるを得なかった。結果は、約40万の人口が約一割にまで減るという出自アイデンティティ自体の揺らぎであり、ハワイ文化とキリスト教の混淆形態という現在にいたる歴史である。

その中で芽生えた可能性もあった。元ホノルル判事ジョセフ・カオナによる1867年以降の千年王国運動と叛乱は、キリスト教化されアメリカナイズされるハワイで、キリスト教をハワイ化する試みだった。またハワイの伝統的宗教職カフナは、現地語の豊穣な口頭伝承世界を保っていた。

キリスト教徒でありながらカフナである人々も現われたが、英語公用化と学校教育によって、また教会からの抑圧によってカフナはハワイ王国の崩壊、米国に編入される過程で、人々との接続を失った 。ハワイ固有の「弱い主体」の世界は、ほぼ失われたのである。太平洋をこえて来た聖書解釈に固執する米国プロテスタンティズムはハワイ語の口頭伝承世界を上書きしてしまった。

では日本ではどうか。日本語キリスト教といえば、内村鑑三と無教会、波多野精一と京都学派など、偉大な蓄積がある (7)。また『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』で紹介され論じられた様々な日本的キリスト教のかたちを思い出す人もあるだろう (8)。しかし、いずれにせよ、京都学派も日本のキリスト教も、その戦時中のふるまいの是非を含めて、これらは西洋近代的自我と主体性を求めるものであった (9)。

日本語キリスト教はその歴史ゆえに「主体」的にならざるを得ない。なぜなら、そこでキリスト教は近代化のための文化表象として、卓越した近代人の宗教として喧伝され、他の宗教を貶めるような形で輸入されたからである。これは遅れた近代化を経験した多くの文化・言語圏においても同じであるが、日本は独立を保ったまま近代化を行った (10)。

ハワイ、日本、沖縄を含む「遅れた近代化」の波を被った文化・言語圏には、神の声によって起動する西洋近代的自我の前に、多声的な世界の広がりがあった。では、主体的でないがゆえに、歴史に残ることのない「弱い主体」の声をどうすれば汲み出せるのか。西洋近代的自我に直面することで追いやったもの、そうしてもなお、まとわりつく口頭伝承世界にあるような土着の声と、どうすれば再接続できるのか。

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※次回更新は6月6日(日)夕方6時

6) ハワイの事例については、文化人類学者・井上昭洋の研究『ハワイ人とキリスト教 文化の混淆とアイデンティティの創造』を全面的に参照。沖縄のキリスト教については、一色哲「南島キリスト教史入門」全25回『福音と世界』(新教出版社、2014~2016)などを参照。また、渡久山朝章『一粒の麦』(日本基督教団・読谷教会、1987年)などは、沖縄の出版文化に基づく「沖縄キリスト教文学」として評価され得る。長崎のキリスト教については、日本語キリスト教伝来発祥の地、弾圧、殉教、潜伏、被爆という特異な歴史を辿っているので例外的である。カクレキリシタンに関する優れた研究としては、宮崎 賢太郎『カクレキリシタンの実像:日本人のキリスト教理解と受容』(吉川弘文館、2014)を参照せよ。
7) 西谷啓治「キリスト教と哲学と禅」『西谷啓治著作集』(創文社、1987)207-225頁を参照。
8) マーク・R.マリンズ著、高崎恵訳『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』(トランスビュー、2005)
9) 『第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白』(日本基督教団、1966年)を参照。雑誌『文学界』1942年9―10月号の特集企画に、キリスト教から吉満義彦(カトリック神学者・1904-1942)が、論文「近代超克の神学的根拠」を掲載。
10) 竹内好「方法としてのアジア」武田清子編『思想史の方法と対象』(創文社、1961年)などが興味深い。

波勢邦生

 はせ・くにお 1979年岡山生・キリスト新聞関西分室研究員/シナリオライター

【トナリビトの怪】(1)地球をつかむ神の手 波勢邦生 『アーギュメンツ#3』

※初出:「トナリビトの怪」黒嵜想・仲山ひふみ共同編集『アーギュメンツ#3』、渋家、2018、pp.24~37

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