私は今年84歳の高齢者になったが、毎日散歩を続けている。いつも夕刻に出かけるが、二つの散歩コースがある。Aコースは約600mで、夕陽を背にして畑や竹藪を見ながらマンションを1周する。Bコースは往復約1kmで、一般道路の歩道を郵便局とコンビニエンスストアを目指して歩く。散歩中は何かを考えたり、歌を口ずさんだり、犬の散歩をする人に出会って言葉をかけたり、それなりの楽しさもある。しかし最近は、一歩一歩の足取りに、自分の人生の重みを感じている。
そんな時、よく讃美歌(1954年版)288番2節の歌詞を思い出す。「ゆくすえとおく見るを ねがわじ 主よ、わがよわき足を まもりて、ひとあし、またひとあし、みちをばしめしたまえ」
糖尿病を持ち運動を欠かせないが、8年前の右大腿骨骨折の後遺症でロフストランドクラッチという杖がなければ歩けない。まさに「わがよわき足を まもりて」と願いつつ、「ひとあし、またひとあし」を進める。
しかし、80代半ばの人生のこれからの足取りがどうなるのか、しばしば不安がよぎる。そんな時、毎日の散歩中に見る夕陽の美しさに励まされる。私が住む大阪府豊中市東泉丘というところから見える、神戸六甲山の向こうに沈む夕陽が美しい。夕陽の名所はいくらでもあるが、太陽と地球の出合いが演出するドラマにいつも感動する。国立ハンセン病療養所大島青松園に在住した詩人塔和子さん(1929~2013年)の「夕映え」という詩を思い出す。
「私の人生は/朝も過ぎ昼も過ぎ/夕日のいまだ照っているような/しばらくで/どこからか/元気を出して元気を出してと/はげましてくれているような/そう/元気でいたいほんとうに元気でいたいと/足の痛いのをがまんして/そんな言葉を/つぶやくこの日頃/(中略)そして/つつがなく生きた今日すてきな/夕映えを見て/終わりのときはあのようにありたいと/ひたすらに希う/私です」(詩集『今日という木を』より)。
夕陽は終日を告げる現象だが、沈みゆくその光は「日はまた昇る」明日への希望の光である。私のおぼつかない「ひとあし、またひとあし」も、その夕陽に照らされている。
「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」(ローマ人への手紙10:15=口語訳)と鼓舞されながら、残された素敵(ステッキ)な人生を歩き続けたい。
かわさき・まさあき 1937年兵庫県生まれ。関西学院大学神学部卒業、同大学院修士課程修了。日本基督教団芦屋山手教会、姫路五軒邸教会牧師、西脇みぎわ教会牧師代務者、関西学院中学部宗教主事、聖和大学非常勤講師、学校法人武庫川幼稚園園長、芦屋市人権教育推進協議会役員を歴任。現在、公益社団法人「好善社」理事、「塔和子の会」代表、国立ハンセン病療養所内の単立秋津教会協力牧師。編著書に『旧約聖書を読もう』『いい人生、いい出会い』『ステッキな人生』(日本キリスト教団出版局)、『かかわらなければ路傍の人~塔和子の詩の世界』『人生の並木道~ハンセン病療養所の手紙』、塔和子詩選集『希望よあなたに』(編集工房ノア)など。