西欧列強の興隆と新航路の発見により、17世紀前半にプロテスタントがオランダ貿易と一緒に東アジアに伝来し、台湾南部にも伝えられた。同じころ、スペイン人が台湾北部を約16年統治した際、カトリックが台湾北部に伝来した。オランダは38年間、台湾を統治したが、その後、撤退したことによりキリスト教の宣教も中断された。1858年、第二次アヘン戦争でイギリスが清朝に勝利し、天津条約が締結されると、台湾は通商開港となり、①台湾府(現在の台南市)を拠点としたイギリス長老教会、②淡水(現在の新北市淡水区)を拠点としたカナダ長老教会、③打狗(ターカウ、現在の高雄市)を拠点としたカトリックのドミニコ会の3組織が、台湾宣教を開始した。
1847年、イギリス長老教会が派遣したウィリアム・バーンズ(1815~1868年)=写真上=が香港に到着し、49年には現地人信徒と一緒に、広東沿海を7週間にわたり伝道し、51年には厦門(アモイ)を同長老教会の中国宣教の最初の拠点とすることに決定した。その後、60年には同長老教会の駐厦門宣教師カーステアズ・ダグラスが駐汕頭(スワトウ)宣教師H・L・マッケンジー、信徒の黄嘉智、呉文水を伴って来台し、淡水などを視察して伝道の可能性を探った。ダグラスは台湾においては福建省の漳州・廈門からの移民が「ホーロー語」(福建省一帯の方言)を話していることに驚き、「私たちの耳には、『ここに来りて我らを助たすけよ』と、光り輝くこの地に福音を直接伝えるようにとの強き招きの声を聞いたかのようであった」と日記に記している。
清朝末期、最初に台湾に常駐するようになった宣教師は、医師でもあったジェームズ・マクスウェル(1836~1921年)=写真下=だ。彼は1864年に厦門に到着後、懸命にホーロー語を学び、台湾宣教に備えた。マクスウェル、ダグラス、呉文水は打狗に到着後、3週間におよぶ調査を実施した。彼らはまず、ドミニコ会のカトリック教会を見学した後に徒歩で台湾府に向かい、1週間ほどそこに滞在した後に再び打狗に戻った。マクスウェルは視察旅行の中で、台湾府の人口が多いことに深い印象を受け、台湾宣教を始めるにはそこ以上にふさわしい場所はないと考えた。
65年、マクスウェルはダグラスと3人の福建人の助手たちと打狗に上陸した。イギリス駐打狗領事はマクスウェルに対して、「打狗には外国人居住区があり、領事館の保護も受けやすいから、ここで宣教を始めたらどうか」と勧めたが、マクスウェルは台湾府の方が人口が多いことを考慮し、やはり台湾府を宣教拠点とすることを選んだ。彼は台湾府に場所を借り、伝道所兼診療所を開設し、正式に台湾宣教を開始した。
このように、イギリス長老教会は、台湾の現地語と厦門語が似ており、住民の多くが福建省の漳州・厦門一帯からの移民であることに気が付き、また台湾府が当時の台湾においては最大都市として経済・政治・文化の中心であったため、宣教拠点として選んだのだった。それは明らかに、同長老教会の台湾宣教の主要な対象が、人口が多く、ホーロー語を話す漢人たちだったことを示している。
ところが、その後の30年の歴史の歩みの中で、キリスト教が広まったのは漢人の間ではなく、山沿い地域の「平埔(へいほ)族」(清朝以前からの台湾先住民)の間であった。医者のマクスウェルや他の宣教師たちがどのような宣教活動をしたのか、またなぜ大部分の信徒は平埔族だったのか? そのことは、次回につづく。(翻訳 松谷曄介)
王 政文
おう・せいぶん 国立台湾師範大学歴史学博士、東海大学歴史学部副教授・同学部主任。専門は台湾史、台湾キリスト教史。特にキリスト者の社会ネットワーク・改宗プロセス・アイデンティティーの相関関係を研究。著書に『天路歴程:清末台湾基督教徒的改宗与認同』(2019年)など。